わたしたちが清められる理由
オーストラリアでワーキングホリデー中に理不尽な差別被害に遭った27歳女性・実花の物語。理由のわからない理不尽さを追いかけるうちに、彼女自身も何かを見ていなかったことに気づいていく——短編ヒューマンドラマ小説。
第一章
湯気の向こうで、タカがまた同じ冗談を言っている。
「実花、そのラテアート、また傾いてるよ」
「傾いてるんじゃなくて、風がある日のデザインです」
タカが笑う。カフェの奥、焙煎機の音に紛れるくらいの、ちょうどいい大きさの笑い声だった。実花はミルクピッチャーを軽く振って、カップの縁に残った泡を拭った。窓の外は九月の光で、通りを歩く人の影がまだ長い。
シフトが終わると、実花はいつも通り、裏口から出て、川沿いの道を選ぶ。まっすぐ行けば十五分、川沿いを回れば二十五分。誰かに聞かれたら「そのほうが涼しいから」と答えることに決めている。実際には、まっすぐの道の途中に、あの日と同じ電柱があるからだった。
その電柱の下を通るたび、何かが起きるわけではない。ただ、通らない。それだけのことだった。
シェアハウスに戻ると、ドアの前でユカが植物に水をやっていた。
「実花、今日は川沿い?」
「うん」
「遠回りなのに」
「涼しいから」
ユカは特に疑わなかった。実花もそれ以上説明しなかった。ふたりの間には、そういう距離のとり方があった。
第二章
三ヶ月前、実花がこのシェアハウスに越してきた最初の週に、小さな出来事があった。
洗濯物を取りに行った十分ほどの間に、部屋に置いていたバッグの中の財布から、ある程度のお金が抜かれていた。数えれば数えられる金額だったが、誰の仕業かは分からなかった。住人は実花を含めて六人。誰も名乗らず、誰も認めなかった。
実花は最初、頭の中で住人ひとりひとりの顔を思い浮かべて、疑ってしまう自分に気づいて嫌になった。犯人を見つけたいのか、それとも誰も疑わなくて済む理由を見つけたいのか、自分でも分からなくなった。
オーナーのグレンは、話を聞くと、ただ静かにうなずいた。
「見つからないかもしれない。それは先に言っておく」
そう言ったあとで、彼は実花の分の来月の家賃から、盗まれた額をそのまま差し引いた。
「これで済む話じゃないのは分かってる。でも、これくらいはできる」
実花は何度も断ろうとしたが、グレンは聞かなかった。その夜、実花は誰のせいにもできない苛立ちを、シャワーの温度を少し高めにすることで紛らわせた。
それでも、実花はまだ思っていた。この国は、悪くない。
第三章
事件が起きたのは、その二週間後だった。
ファームでの一日を終えて、バス停まで歩いている途中だった。道は広く、両側に低い店が並んでいるだけの、何の変哲もない通りだった。
後ろから車が近づいてくる音がした。速度を落とす音。実花は特に気にせず歩いていた。
窓が開く音。何か叫ぶ声。振り返るより先に、頬に温かいものが当たった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。生卵が、顔の右側から肩、胸元にかけて広がっていた。殻の欠片が首筋に落ちて、割れた黄身が服の中に滑り込んでいく感触があった。車はもう遠くで、テールランプだけが見えた。叫び声の意味は、聞き取れなかった。
道の真ん中で、実花はしばらく動けなかった。通り過ぎる人が二人、こちらを見て、何も言わずに視線を逸らした。
アパートに戻るまでの時間、実花は自分がどんな顔をしていたか覚えていない。部屋に着いて、服を脱いで、シャワーの湯を出した。頭からお湯をかぶると、卵の匂いと、道路の匂いと、自分の汗の匂いが一度に流れていった。
排水口に消えていく水を見ながら、実花は思った。これは、誰にも言わない。
第四章
数日後、シェアハウスの共用スペースで、ユカがコーヒーを飲みながらニュースを見ていた。
「最近このあたり、卵投げの被害があるってニュースでやってたよ。知ってた?」
実花は皿を洗う手を止めずに、「うん、噂で聞いてた」と答えた。
「実花も気をつけて」
「……実は、やられた」
ユカが顔を上げた。「え、いつ?大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。ただの卵だから」
「うわ、最悪。でもまあ、ただの卵でよかったじゃん。気にしすぎないほうがいいよ、そういうのって」
その言葉に、悪意はなかった。実花にも分かっていた。だから何も言えなかった。ただ、皿を洗う手が、少しだけ強くなった。
第五章
カフェの常連客に、ジューンという女性がいた。週に三度ほど、同じ時間にひとりで来て、同じ紅茶を頼む。実花より一回りほど年上で、いつも静かに窓の外を見ていた。
ある日、実花がカップを置くとき、手首に絆創膏があるのを見て、ジューンが「怪我?」と聞いた。実花は反射的に、事件のことを話してしまった。話すつもりはなかったのに、言葉が勝手に出た。
ジューンはしばらく黙っていた。それから、紅茶に口をつけて、静かに言った。
「それは、私たちに向けられてきたものの、使いまわしだよ」
実花には、すぐに意味が分からなかった。
「昔からこの国にいる人間を、この土地から追い出すための理屈があった。今も残ってる。新しく来た人間にも、その理屈がそのまま流用される。理由は特に更新されない。的が増えるだけ」
ジューンの声には、怒りも同情もなかった。ただ、長い間そこにあったものを説明する口調だった。
実花は、自分が受けた理不尽さが、初めて「自分だけの不運」ではなく、もっと古くて大きなものの一部だと知った。ほっとしたわけではなかった。ただ、輪郭が変わった。
第六章
翌週、実花とタカは同じファームのシフトに入った。
作業の合間、タカが実花の話を聞いて、いつも通り笑った。
「卵かぁ。俺も似たようなの、前にあったよ。まあ、こっちも色々あるからね」
「気にしてないんですか」
「気にしてどうなるわけでもないし」
タカはそう言って、また作業に戻った。実花はその横顔を見ていた。笑い方はいつもと同じだったが、目だけが、笑っていなかった。実花は、その違和感の名前をまだ知らなかった。
第七章
しばらくして、ジューンの知り合いを通じて、実花は思いがけない形で、ある人物の話を聞くことになった。
事件のあった通り沿いに住む、年配の女性だった。息子が最近、警察から何度か注意を受けているらしいという話を、近所の噂として、悪気なく話してくれた。息子は仕事を失って、家に閉じこもりがちで、最近はやたらとラジオの過激な番組を聞いているという。
実花は、その話のどこにも「怪物」を見つけられなかった。想像していたのは、明確な悪意を持った、はっきりとした敵の顔だった。実際にあったのは、ただ、何かを失って、行き場のない苛立ちを、誰かに投げつける方法を選んだ、平凡な人間の輪郭だった。
拍子抜けした、というのが一番近い感覚だった。怖くなくなったわけではない。ただ、怖さの置き場所が、少しだけ変わった。
第八章
その夜、実花は日本のさやかに電話をかけた。
「最近どう?」
「まあ、普通。……あ、そういえば」
実花は、卵のことを、できるだけ軽く話そうとした。声のトーンを保とうとした。
「──で、そのあと、シャワー浴びて」
「ちょっと待って、実花」
さやかの声が変わった。「それ、軽く言うことじゃないでしょ」
実花は黒っぽくなった画面を見ながら、何も言えなくなった。喉のあたりに、何かが詰まっている感覚があった。
「実花?」
「……なんで、私なんだろうって」
声が震えた。抑えていたものが、一度に出てきた。何と言っているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、泣きながら、意味のない言葉を何度も繰り返した。さやかは、何も言わずに、電話の向こうで聞いていた。
しばらくして、実花は落ち着いた声で「ごめん、変なテンションになった」と言った。さやかは「別に、変じゃないよ」と言った。
電話を切ったあと、実花は、久しぶりに何も考えずに眠った。
第九章
ファームでの残業のあと、タカと二人で帰る夜道があった。街灯が少なく、足音だけがはっきり聞こえた。
「実花、あの卵の話、まだ引きずってる?」
「引きずってるっていうか……考える時間が増えた、くらい」
「そっか」
タカは少し歩いてから、ぽつりと言った。
「俺、気にしてないふりが、けっこう得意なんだよね」
実花は足を止めなかったが、話の続きを待った。
「向こうに来て最初の年、似たようなこと、何回かあった。その度に、笑って済ませてきた。そのうち、笑うのが得意になった。でも、気にしてないわけじゃない。ただ、気にしてないふりが、上手くなっただけ」
「……知らなかった」
「言わないから、知られないよ」
タカは笑ったが、いつもの笑い方とは少し違って聞こえた。
実花は、自分だけが弱いわけではないと、初めて実感として理解した。明るさは、必ずしも回復の証ではなかった。それでも、タカは今、笑っていないことを言葉にした。それ自体が、何かの変化だった。
第十章
翌朝、実花はいつもの遠回りをしなかった。
まっすぐの道を歩いた。あの電柱の下を通るとき、特に何も起きなかった。ただの電柱だった。
少し先の路肩に、白い欠片が落ちているのが見えた。近づいてみると、卵の殻の一部だった。おそらく、誰かの朝食のゴミが、袋から零れたものだろう。実花はしゃがまなかった。拾わなかった。ただ、それを視界の端に入れたまま、そのまま歩き続けた。
バス停に着く頃、実花はグレンに会った。彼は花壇に水をやっていた。
「おはよう、実花」
「おはようございます」
「今日は、まっすぐの道から来たね」
実花は少し驚いた。グレンはただ、それだけ言って、また花壇に水をやり続けた。
バスに乗ってからも、実花はしばらく窓の外を見ていた。景色は特に変わっていなかった。ただ、それを見る自分の座り方が、少しだけ違っている気がした。
カフェに着くと、タカがいつも通りの声で「おはよう」と言った。実花も、いつも通りの声で返した。ただ、その「いつも通り」の中に、これまでとは違う重さが、静かに収まっていた。
あとがき
ワーキングホリデー稼げるぞ。と友人から聞いた話。シェアハウスのメンバーは最高だった。最高の中でも辛い話もあるリアルな体験談を聞かせてもらいました。
卵版弾事件は事件は実際に被害に遭われた方もいたらしい。
断片的にワーキングホリデーを想像しておきることを繋げて執筆してみました。







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