cntwork.com は、実際に運営者が訪れた国・都市での体験をもとに、海外旅行・グルメ・最新テクノロジーに関する情報を発信している 個人運営のブログサイト です。

何度でも、確かめに行く|震災と世界一周、静かな再会を描く短編小説【ヒューマンドラマ】

2026年9月19日土曜日

30代 お仕事小説 バックパッカー ヒューマンドラマ 一人旅 再出発 小説 人間ドラマ 人生の転機, 世界一周 短編小説 中央アジア 旅行 旅小説

t f B! P L

何度でも、確かめに行く

短編小説 / ヒューマンドラマ

東日本大震災の日、悠人は目の前で困っている人を助けられなかった。それを誰にも話せないまま、「大きなことをしたい」という渇望だけを抱えて世界一周の旅に出る。旅先の宿で出会った冬子と、別れ、そして偶然の再会。中央アジアを共に旅した3ヶ月間、悠人は何度も言葉を飲み込み続けた——。
偶然に見えるものの奥には、いつも小さな必然がある。そんな旅の記憶を、静かに描いた物語。

生ビールのジョッキが、ふたつ並んでテーブルに置かれた。

「悠人、変わらないね」

冬子がそう言って、ジョッキを軽く持ち上げる。悠人もそれに合わせてグラスを掲げたが、言葉は出てこなかった。乾杯というほどの気合いもなく、ただ、ぶつかったガラスの音だけが小さく響いた。

新宿の裏通りにある、煙草の匂いが染みついた居酒屋だった。冬子が「ここ、変わってなくて安心する」と言った店で、実際に悠人も何度か来たことがあった。あの旅から帰ってきて、何度か。

「最近、山は」

悠人が聞くと、冬子は「行けてない」と笑って、枝豆を口に運んだ。

「仕事が忙しくて。でも来月、久しぶりに北アルプス行く予定」

「晴れるといいね」

「うん」

そう言って、冬子は少し間を置いた。グラスの表面についた水滴を、指でなぞっている。

「そういえばさ」

「うん」

「あの山、結局晴れたね」

一瞬、悠人は何の話かわからなかった。だが冬子の目が、明らかに遠くを見ていた。中央アジアの、あの国の、あの山のことを言っているのだとすぐにわかった。

「……そうだね」

そう答えるだけで、悠人の胸の奥で、何かが小さく動いた。

冬子はそれ以上何も言わず、また枝豆に手を伸ばした。悠人は、ジョッキの取っ手を握ったまま、しばらく動けずにいた。

揺れは、最初は大したことがないように感じられた。

悠人は当時、大学の近くのコンビニでレジに立っていた。棚から缶詰がいくつか落ちる音。誰かの悲鳴。店長が「外に出ろ」と叫ぶ声。

外に出てから、揺れは本格的に強くなった。電柱が大きくしなり、隣のビルの窓ガラスが割れる音がした。悠人は反射的にしゃがみこみ、両手で頭を覆った。

そのとき、視界の端に、倒れた自転車の下敷きになっている人影が見えた。年配の女性だった。腕を伸ばして、こちらに向かって何か言っている。声は聞こえなかった。揺れと悲鳴にかき消されていた。

悠人は動けなかった。数メートル先。手を伸ばせば届く距離だったかもしれない。だが、頭を覆ったまま、その場から動かなかった。

揺れが収まったあと、別の男性がその女性を助け起こしているのが見えた。女性は無事だったようだった。悠人はただ、遠くからそれを見ていた。

その夜、悠人は家に帰ってから、誰にもその話をしなかった。テレビでは津波の映像が繰り返し流れていた。自分が見たものなど、取るに足らないことのように思えた。誰も死ななかった。誰も怪我をしなかった。それなのに、悠人の中には、はっきりとした重さが残った。

自分は、動けなかった。

その後、何年も経っても、その感覚は薄れなかった。むしろ時間が経つほど、輪郭がはっきりしていくようだった。安全だと思っていた日常が、一瞬で崩れることがある。そして、崩れた瞬間に、自分がどんな人間かがわかってしまう。

大学を出て、会社に入って、三年が経った頃、悠人は退職届を出した。理由を聞かれても、うまく説明できなかった。ただ、「何か大きなことをしなければ」という焦りだけが、胸の中で膨らんでいた。世界一周という言葉が、いつのまにか具体的な計画になっていた。

最初にその宿で冬子を見かけたのは、共有キッチンだった。

東南アジアのある町の、安宿の二階。冬子は片手鍋でインスタント麺を作りながら、もう片方の手でスマートフォンの地図を確認していた。

「それ、美味しいですか」

悠人が聞くと、冬子は顔を上げて、少し驚いたように笑った。

「美味しくはないけど、安い」

それだけの会話だった。だが、その日の夜、共有スペースのハンモックで、二人はなんとなく並んで座ることになった。旅の情報交換、というやつだった。どこの国のビザが面倒か、どの国の夜行バスは避けたほうがいいか。

「悠人くんは、どこまで行く予定?」

「決めてない。行けるところまで」

「私は」冬子はスマートフォンの画面を見ながら言った。「来月、中央アジアのほうに行こうと思ってる。あの国、今の時期にお祭りがあるから」

「お祭り?」

「うん。旅人がその時期に集まるから、宿も取りやすいし、情報も集まりやすいの」

悠人はそのとき、その言葉をただの雑談として聞いていた。特に気に留めることもなく、数日後、悠人は別の方角へ、冬子は冬子で別の国へと、それぞれ旅立っていった。連絡先は交換したが、それ以上の約束はなかった。

「ねえ、聞いてる?」

冬子の声で、悠人は我に返った。

「あ、ごめん。聞いてる」

「ほんとに?」冬子が笑いながら、悠人の顔をのぞきこむ。「なんか、ずっとどっか行ってたよ」

「昔のこと、ちょっと思い出してた」

「私たちの旅?」

「まあ、そう」

冬子はそれ以上追及せず、店員を呼んで追加のビールを頼んだ。悠人はグラスの中の氷が溶けていくのを見ていた。あの日、山で言いかけたことが、まだ胸のどこかに引っかかっている。それを今、話すべきかどうか、悠人にはわからなかった。

「あんたさ」

冬子が急に言った。

「昔から、なんか言いかけて黙ること多いよね」

悠人はビールを一口飲んだ。

「そう?」

「そう。中央アジアのときも、何度かあった」

「気のせいじゃない?」

冬子は少し目を細めて悠人を見たが、それ以上は何も言わなかった。話題は自然と、共通の知人の近況へと移っていった。悠人はほっとしたような、少し物足りないような、複雑な気持ちでグラスを傾けた。

その国の宿の受付で、悠人は見覚えのある背中に気づいた。

冬子だった。荷物を受付に預けながら、パスポートを見せている。悠人は声をかけるべきか一瞬迷ったが、冬子のほうが先に振り返った。

「え」

「え」

二人とも、同じような声を出した。しばらく、お互いに何を言っていいかわからず、ただ笑うしかなかった。

「なんで、ここに」悠人が言うと、冬子は肩をすくめた。

「言ったじゃん。お祭りのこと」

「覚えてたけど、まさか本当に会うとは思わなかった」

「そうかな」冬子は宿のロビーを見渡した。長期滞在らしき旅人たちが、あちこちで情報交換をしている。「宿の数なんて限られてるし、みんな同じ時期に同じ目的で来るんだから、会う確率はけっこう高いと思うよ」

「そういうものなのかな」

「そういうもの」

冬子はあっさりとそう言って、荷物をロビーの隅に置いた。悠人は、その言い切り方に、なぜか少し安心した。偶然だと思っていたものが、誰かの言葉ひとつで、ただの必然に変わる。それが不思議と、心地よかった。

「ビザ、取る予定?」

「うん。あと一週間くらいかかりそう」

「私も。じゃあ、しばらくよろしく」

冬子が右手を差し出した。悠人はその手を握り返した。手のひらは、思ったより硬かった。旅を続けてきた手だ、と悠人は思った。

ビザ待ちの一週間は、思っていたより長かった。

宿のテラスで、悠人と冬子は何度も顔を合わせた。他の旅人たちが持ち寄る情報――どの役所の窓口が早いか、どの担当者が愛想がいいか――を集めながら、二人の会話は少しずつ、旅の話以外のことにも広がっていった。

「冬子さんは、なんでずっと一人旅してるの」

ある夜、テラスの安い椅子に座って、悠人が聞いた。冬子は少し黙ってから、答えた。

「家族の中で、ずっと『しっかりしてる人』だったから」

「うん」

「誰かが泣いたり怒ったりすると、いつも私が間に入る役だった。それで、いつの間にか、自分が何を感じてるのかわからなくなってた」

冬子はビールの缶を軽く回した。

「山を登ってるときはさ、次の一歩のことしか考えなくていい。誰の機嫌も、誰の感情も、考えなくていい。それが、すごく楽なの」

悠人は何も言わず、ただ頷いた。冬子が「悠人は?」と聞き返してきたとき、悠人は喉のあたりで言葉が詰まるのを感じた。

「俺は、震災があって」

そこまで言って、止まった。

「うん」

冬子は急かさなかった。ただ、缶ビールを持ったまま、静かに悠人の言葉を待っていた。

「……なんか、その日から、自分がどういう人間か、わかっちゃった気がして」

「どういう人間?」

悠人は首を振った。

「まだ、うまく言えない」

冬子はそれ以上聞かなかった。ただ、「そっか」とだけ言って、星の少ない夜空を見上げた。悠人はその横顔を見ながら、いつか話せる日が来るのだろうかと、ぼんやり考えていた。

数日後、ビザが下り、二人は一緒に中央アジアの山岳地帯へ向かうことになった。特別な決意も、告白めいた言葉もなかった。「一緒に行く?」「うん」――それだけのやりとりだった。

雨は、登山口を出てすぐに降り出した。

「ついてないね」悠人が言うと、冬子はフードを深くかぶりながら、笑った。

「山なんてこんなもんだよ。晴れる日のほうが少ない」

道はぬかるみ、視界は白く霞んでいた。荷物は重く、足元は滑りやすい。悠人は何度もバランスを崩し、そのたびに冬子が振り返って「大丈夫?」と聞いた。

「大丈夫」

その言葉を、悠人は何度も繰り返した。震災の日から、ずっと使い続けてきた言葉だった。

「悠人ってさ」冬子が前を歩きながら言った。「『大丈夫』しか言わないよね」

「そう?」

「そう。大丈夫じゃないときも、大丈夫って言う」

悠人は返す言葉が見つからず、ただ雨に濡れた地面を見ながら歩き続けた。

「私は、山にはこういう日があるから、逆に好きなんだ」冬子が続けた。「辛い日があるから、晴れた日の景色が本当に綺麗に見える。雨の日の山は、正直、地獄だけどね」

悠人は少し笑った。「地獄って」

「地獄だよ。今も足、めちゃくちゃ冷たい」

そう言って、冬子は歩調を緩めずに前を進んでいく。悠人はその背中を見ながら、この人は本当に、何があっても崩れないんだな、と思った。同時に、自分にはそれができるだろうか、とも思った。

三日目の朝、雲が薄くなった。

「今日、山頂まで行けるかも」

冬子がテントから顔を出して言った。悠人は寝袋から起き上がり、外の空気を確かめた。まだ完全には晴れていない。だが、確かに、光の質が変わっていた。

登り始めてから四時間、稜線に出たところで、二人は足を止めた。雲が、山肌の下のほうにびっしりと広がっている。頭上は、まだ薄く霞んでいた。

「晴れるかな」

悠人が聞くと、冬子は空を見上げたまま、「わかんない」と言った。

「わかんないのに、登るんだ」

「登らなきゃ、わかんないでしょ」

その言い方に、悠人は何かを言いたくなった。震災の日から、ずっと胸の中で燻っていたことだった。あのとき、自分は動けなかった。でも、もし動いていたら、何が変わっていたのか、今でもわからない。わからないまま、ただ重さだけを抱えて生きてきた。

「冬子」

「うん?」

「あの日さ、実は——」

言葉が、喉のところで止まった。続きを言おうとした瞬間、風が強く吹いて、頭上の雲が急速に流れ始めた。薄い青が覗き、そのまま一気に晴れていく。

「あ」

冬子が短く声を上げた。悠人が振り返ると、山頂の向こうに、雪をかぶった山脈が幾重にも連なっているのが見えた。雲海が、朝の光を受けて金色に染まっている。

「すごい」

冬子が呟いた。それきり、二人ともしばらく言葉を失っていた。

悠人は、言いかけた言葉を、そのまま飲み込んだ。今、この景色の前で言うべきことではないような気がした。いや、そう思い込もうとしただけかもしれない。結局、覚悟が足りなかっただけかもしれない。

「悠人、なんか言いかけてなかった?」

冬子が景色から目を離さずに聞いた。

「……なんでもない」

「そう?」

「うん」

冬子はそれ以上聞かず、リュックからカメラを取り出して、景色を撮り始めた。悠人はその隣に立って、ただ雲海を見ていた。言えなかったことは、確かに悠人の中に残った。だが不思議と、それを後悔する気持ちは、そのときはまだ湧いてこなかった。

三ヶ月の旅の終わりは、あっけなかった。

国際空港のロビーで、二人は違う便に乗ることになっていた。悠人はロシアへ、冬子はさらに別の国へ。

「じゃあ」

冬子が言った。

「じゃあ」

悠人も同じ言葉を返した。抱き合うでも、涙ぐむでもなかった。三ヶ月間、毎日のように顔を合わせてきた相手との別れとしては、拍子抜けするほどあっさりしたものだった。

「また、どこかで」

冬子がそう言って、軽く手を振った。

「うん、また」

悠人もそう返した。それが、約束というほどのものではないことは、二人とも分かっていた。ただの、旅の終わりの決まり文句だった。

搭乗口へ向かう冬子の背中を、悠人はしばらく見送った。振り返ることもなく、冬子は人混みの中に消えていった。悠人は、自分の中にある感情が何なのか、うまく言葉にできなかった。寂しさでもなく、安堵でもなく、そのどちらでもあるような、名前のつかない感覚だった。

「悠人?」

冬子の声で、また我に返った。居酒屋の喧騒が、耳に戻ってくる。

「あ、ごめん」

「今度は何、思い出してたの」

悠人はジョッキを見つめた。中身はもう、半分ほどに減っている。

「空港で別れたときのこと」

冬子は「ああ」と小さく言って、少し笑った。

「あっけなかったね、あれ」

「うん」

「今思うと、もうちょっと何か言えばよかったのかな、とか思うけど」

冬子がそう言ったとき、悠人は思わず顔を上げた。冬子もまた、あの旅のことを、何か言い残したまま終わらせたと感じていたのだろうか。

「冬子もそう思ってたんだ」

「え、悠人も?」

「うん、まあ」

二人はしばらく黙って、それぞれのグラスに口をつけた。店内の喧騒が、二人の間の沈黙を、それほど気まずいものにはしなかった。

「でもさ」冬子が言った。「あの山、結局晴れたじゃん」

「うん」

「あれだけでよかったのかもね。言葉とかより」

冬子の言葉は、悠人の魂に直接問いかけるようだった。あの山頂で言えなかったこと。今も、はっきりとした言葉にはできない。だが、あの時冬子と共有した景色、雨の中での三日間、ビザ待ちの宿での語らい。そのすべてが、実はもう、答えだったのではないか。悠人は、自分の中にあった「問い」が、いつの間にか「答え」へと変わっていたことに、初めて気づいた。

「大きなことをしたい」と思って旅に出た。だが自分が本当に確かめたかったのは、遠くの景色でも、自分の強さでもなく、誰かの隣を、逃げずに歩き続けられるかどうかだったのかもしれない。それに気づくのに、何年もかかった。

「冬子」

「うん?」

「今度、山、また行く?」

冬子は少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと笑った。

「行きたいの?」

「うん。天気、悪くてもいいから」

「地獄だよ、また」

「知ってる」

冬子は笑いながら、店員を呼んで、また二杯のビールを注文した。悠人は、まだ何も言えていない自分に、それでいいのだと、初めて思うことができた。言えなかった言葉は、消えたわけではない。ただ、今もまだ、隣にいる。

運ばれてきたジョッキを、二人はまた軽くぶつけた。グラスの音が、さっきよりも少しだけ、はっきりと響いた気がした。

(了)

この物語について

本作は、世界一周の一人旅で経験した実体験をもとにしたフィクションです。登場人物・出来事の一部は物語として再構成しています。旅、震災、再出発をテーマにした人間ドラマ・ヒューマンドラマをお探しの方へ。

人気記事

Welcome



はじめまして!
フリーテーマの記事をのびのび更新します!!

このブログは、実際に訪れた国や都市での体験をもとに、 海外旅行のリアルな情報・注意点・感じたことを記録している 個人運営の旅行ブログです。

人気の記事

人気の記事

何度でも、確かめに行く|震災と世界一周、静かな再会を描く短編小説【ヒューマンドラマ】

何度でも、確かめに行く 短編小説 / ヒューマンドラマ 東日本大震災の日、悠人は目の前で困っている人を助けられなかった。それを誰にも話せないまま、「大きなことをしたい」という渇望だけを抱えて世界一周の旅に出る。旅先の宿で出会った冬子と、別れ...

記事を読む

主な掲載内容

グルメやプログラミング、明日話したくなるような会話のネタを発信しています。旅のコツなどをわかりやすく解説します。

このブログを検索

アーカイブ

QooQ