何度でも、確かめに行く
短編小説 / ヒューマンドラマ
東日本大震災の日、悠人は目の前で困っている人を助けられなかった。それを誰にも話せないまま、「大きなことをしたい」という渇望だけを抱えて世界一周の旅に出る。旅先の宿で出会った冬子と、別れ、そして偶然の再会。中央アジアを共に旅した3ヶ月間、悠人は何度も言葉を飲み込み続けた——。
偶然に見えるものの奥には、いつも小さな必然がある。そんな旅の記憶を、静かに描いた物語。
一
生ビールのジョッキが、ふたつ並んでテーブルに置かれた。
「悠人、変わらないね」
冬子がそう言って、ジョッキを軽く持ち上げる。悠人もそれに合わせてグラスを掲げたが、言葉は出てこなかった。乾杯というほどの気合いもなく、ただ、ぶつかったガラスの音だけが小さく響いた。
新宿の裏通りにある、煙草の匂いが染みついた居酒屋だった。冬子が「ここ、変わってなくて安心する」と言った店で、実際に悠人も何度か来たことがあった。あの旅から帰ってきて、何度か。
「最近、山は」
悠人が聞くと、冬子は「行けてない」と笑って、枝豆を口に運んだ。
「仕事が忙しくて。でも来月、久しぶりに北アルプス行く予定」
「晴れるといいね」
「うん」
そう言って、冬子は少し間を置いた。グラスの表面についた水滴を、指でなぞっている。
「そういえばさ」
「うん」
「あの山、結局晴れたね」
一瞬、悠人は何の話かわからなかった。だが冬子の目が、明らかに遠くを見ていた。中央アジアの、あの国の、あの山のことを言っているのだとすぐにわかった。
「……そうだね」
そう答えるだけで、悠人の胸の奥で、何かが小さく動いた。
冬子はそれ以上何も言わず、また枝豆に手を伸ばした。悠人は、ジョッキの取っ手を握ったまま、しばらく動けずにいた。
二
揺れは、最初は大したことがないように感じられた。
悠人は当時、大学の近くのコンビニでレジに立っていた。棚から缶詰がいくつか落ちる音。誰かの悲鳴。店長が「外に出ろ」と叫ぶ声。
外に出てから、揺れは本格的に強くなった。電柱が大きくしなり、隣のビルの窓ガラスが割れる音がした。悠人は反射的にしゃがみこみ、両手で頭を覆った。
そのとき、視界の端に、倒れた自転車の下敷きになっている人影が見えた。年配の女性だった。腕を伸ばして、こちらに向かって何か言っている。声は聞こえなかった。揺れと悲鳴にかき消されていた。
悠人は動けなかった。数メートル先。手を伸ばせば届く距離だったかもしれない。だが、頭を覆ったまま、その場から動かなかった。
揺れが収まったあと、別の男性がその女性を助け起こしているのが見えた。女性は無事だったようだった。悠人はただ、遠くからそれを見ていた。
その夜、悠人は家に帰ってから、誰にもその話をしなかった。テレビでは津波の映像が繰り返し流れていた。自分が見たものなど、取るに足らないことのように思えた。誰も死ななかった。誰も怪我をしなかった。それなのに、悠人の中には、はっきりとした重さが残った。
自分は、動けなかった。
その後、何年も経っても、その感覚は薄れなかった。むしろ時間が経つほど、輪郭がはっきりしていくようだった。安全だと思っていた日常が、一瞬で崩れることがある。そして、崩れた瞬間に、自分がどんな人間かがわかってしまう。
大学を出て、会社に入って、三年が経った頃、悠人は退職届を出した。理由を聞かれても、うまく説明できなかった。ただ、「何か大きなことをしなければ」という焦りだけが、胸の中で膨らんでいた。世界一周という言葉が、いつのまにか具体的な計画になっていた。
三
最初にその宿で冬子を見かけたのは、共有キッチンだった。
東南アジアのある町の、安宿の二階。冬子は片手鍋でインスタント麺を作りながら、もう片方の手でスマートフォンの地図を確認していた。
「それ、美味しいですか」
悠人が聞くと、冬子は顔を上げて、少し驚いたように笑った。
「美味しくはないけど、安い」
それだけの会話だった。だが、その日の夜、共有スペースのハンモックで、二人はなんとなく並んで座ることになった。旅の情報交換、というやつだった。どこの国のビザが面倒か、どの国の夜行バスは避けたほうがいいか。
「悠人くんは、どこまで行く予定?」
「決めてない。行けるところまで」
「私は」冬子はスマートフォンの画面を見ながら言った。「来月、中央アジアのほうに行こうと思ってる。あの国、今の時期にお祭りがあるから」
「お祭り?」
「うん。旅人がその時期に集まるから、宿も取りやすいし、情報も集まりやすいの」
悠人はそのとき、その言葉をただの雑談として聞いていた。特に気に留めることもなく、数日後、悠人は別の方角へ、冬子は冬子で別の国へと、それぞれ旅立っていった。連絡先は交換したが、それ以上の約束はなかった。
四
「ねえ、聞いてる?」
冬子の声で、悠人は我に返った。
「あ、ごめん。聞いてる」
「ほんとに?」冬子が笑いながら、悠人の顔をのぞきこむ。「なんか、ずっとどっか行ってたよ」
「昔のこと、ちょっと思い出してた」
「私たちの旅?」
「まあ、そう」
冬子はそれ以上追及せず、店員を呼んで追加のビールを頼んだ。悠人はグラスの中の氷が溶けていくのを見ていた。あの日、山で言いかけたことが、まだ胸のどこかに引っかかっている。それを今、話すべきかどうか、悠人にはわからなかった。
「あんたさ」
冬子が急に言った。
「昔から、なんか言いかけて黙ること多いよね」
悠人はビールを一口飲んだ。
「そう?」
「そう。中央アジアのときも、何度かあった」
「気のせいじゃない?」
冬子は少し目を細めて悠人を見たが、それ以上は何も言わなかった。話題は自然と、共通の知人の近況へと移っていった。悠人はほっとしたような、少し物足りないような、複雑な気持ちでグラスを傾けた。
五
その国の宿の受付で、悠人は見覚えのある背中に気づいた。
冬子だった。荷物を受付に預けながら、パスポートを見せている。悠人は声をかけるべきか一瞬迷ったが、冬子のほうが先に振り返った。
「え」
「え」
二人とも、同じような声を出した。しばらく、お互いに何を言っていいかわからず、ただ笑うしかなかった。
「なんで、ここに」悠人が言うと、冬子は肩をすくめた。
「言ったじゃん。お祭りのこと」
「覚えてたけど、まさか本当に会うとは思わなかった」
「そうかな」冬子は宿のロビーを見渡した。長期滞在らしき旅人たちが、あちこちで情報交換をしている。「宿の数なんて限られてるし、みんな同じ時期に同じ目的で来るんだから、会う確率はけっこう高いと思うよ」
「そういうものなのかな」
「そういうもの」
冬子はあっさりとそう言って、荷物をロビーの隅に置いた。悠人は、その言い切り方に、なぜか少し安心した。偶然だと思っていたものが、誰かの言葉ひとつで、ただの必然に変わる。それが不思議と、心地よかった。
「ビザ、取る予定?」
「うん。あと一週間くらいかかりそう」
「私も。じゃあ、しばらくよろしく」
冬子が右手を差し出した。悠人はその手を握り返した。手のひらは、思ったより硬かった。旅を続けてきた手だ、と悠人は思った。
六
ビザ待ちの一週間は、思っていたより長かった。
宿のテラスで、悠人と冬子は何度も顔を合わせた。他の旅人たちが持ち寄る情報――どの役所の窓口が早いか、どの担当者が愛想がいいか――を集めながら、二人の会話は少しずつ、旅の話以外のことにも広がっていった。
「冬子さんは、なんでずっと一人旅してるの」
ある夜、テラスの安い椅子に座って、悠人が聞いた。冬子は少し黙ってから、答えた。
「家族の中で、ずっと『しっかりしてる人』だったから」
「うん」
「誰かが泣いたり怒ったりすると、いつも私が間に入る役だった。それで、いつの間にか、自分が何を感じてるのかわからなくなってた」
冬子はビールの缶を軽く回した。
「山を登ってるときはさ、次の一歩のことしか考えなくていい。誰の機嫌も、誰の感情も、考えなくていい。それが、すごく楽なの」
悠人は何も言わず、ただ頷いた。冬子が「悠人は?」と聞き返してきたとき、悠人は喉のあたりで言葉が詰まるのを感じた。
「俺は、震災があって」
そこまで言って、止まった。
「うん」
冬子は急かさなかった。ただ、缶ビールを持ったまま、静かに悠人の言葉を待っていた。
「……なんか、その日から、自分がどういう人間か、わかっちゃった気がして」
「どういう人間?」
悠人は首を振った。
「まだ、うまく言えない」
冬子はそれ以上聞かなかった。ただ、「そっか」とだけ言って、星の少ない夜空を見上げた。悠人はその横顔を見ながら、いつか話せる日が来るのだろうかと、ぼんやり考えていた。
数日後、ビザが下り、二人は一緒に中央アジアの山岳地帯へ向かうことになった。特別な決意も、告白めいた言葉もなかった。「一緒に行く?」「うん」――それだけのやりとりだった。
七
雨は、登山口を出てすぐに降り出した。
「ついてないね」悠人が言うと、冬子はフードを深くかぶりながら、笑った。
「山なんてこんなもんだよ。晴れる日のほうが少ない」
道はぬかるみ、視界は白く霞んでいた。荷物は重く、足元は滑りやすい。悠人は何度もバランスを崩し、そのたびに冬子が振り返って「大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫」
その言葉を、悠人は何度も繰り返した。震災の日から、ずっと使い続けてきた言葉だった。
「悠人ってさ」冬子が前を歩きながら言った。「『大丈夫』しか言わないよね」
「そう?」
「そう。大丈夫じゃないときも、大丈夫って言う」
悠人は返す言葉が見つからず、ただ雨に濡れた地面を見ながら歩き続けた。
「私は、山にはこういう日があるから、逆に好きなんだ」冬子が続けた。「辛い日があるから、晴れた日の景色が本当に綺麗に見える。雨の日の山は、正直、地獄だけどね」
悠人は少し笑った。「地獄って」
「地獄だよ。今も足、めちゃくちゃ冷たい」
そう言って、冬子は歩調を緩めずに前を進んでいく。悠人はその背中を見ながら、この人は本当に、何があっても崩れないんだな、と思った。同時に、自分にはそれができるだろうか、とも思った。
八
三日目の朝、雲が薄くなった。
「今日、山頂まで行けるかも」
冬子がテントから顔を出して言った。悠人は寝袋から起き上がり、外の空気を確かめた。まだ完全には晴れていない。だが、確かに、光の質が変わっていた。
登り始めてから四時間、稜線に出たところで、二人は足を止めた。雲が、山肌の下のほうにびっしりと広がっている。頭上は、まだ薄く霞んでいた。
「晴れるかな」
悠人が聞くと、冬子は空を見上げたまま、「わかんない」と言った。
「わかんないのに、登るんだ」
「登らなきゃ、わかんないでしょ」
その言い方に、悠人は何かを言いたくなった。震災の日から、ずっと胸の中で燻っていたことだった。あのとき、自分は動けなかった。でも、もし動いていたら、何が変わっていたのか、今でもわからない。わからないまま、ただ重さだけを抱えて生きてきた。
「冬子」
「うん?」
「あの日さ、実は——」
言葉が、喉のところで止まった。続きを言おうとした瞬間、風が強く吹いて、頭上の雲が急速に流れ始めた。薄い青が覗き、そのまま一気に晴れていく。
「あ」
冬子が短く声を上げた。悠人が振り返ると、山頂の向こうに、雪をかぶった山脈が幾重にも連なっているのが見えた。雲海が、朝の光を受けて金色に染まっている。
「すごい」
冬子が呟いた。それきり、二人ともしばらく言葉を失っていた。
悠人は、言いかけた言葉を、そのまま飲み込んだ。今、この景色の前で言うべきことではないような気がした。いや、そう思い込もうとしただけかもしれない。結局、覚悟が足りなかっただけかもしれない。
「悠人、なんか言いかけてなかった?」
冬子が景色から目を離さずに聞いた。
「……なんでもない」
「そう?」
「うん」
冬子はそれ以上聞かず、リュックからカメラを取り出して、景色を撮り始めた。悠人はその隣に立って、ただ雲海を見ていた。言えなかったことは、確かに悠人の中に残った。だが不思議と、それを後悔する気持ちは、そのときはまだ湧いてこなかった。
九
三ヶ月の旅の終わりは、あっけなかった。
国際空港のロビーで、二人は違う便に乗ることになっていた。悠人はロシアへ、冬子はさらに別の国へ。
「じゃあ」
冬子が言った。
「じゃあ」
悠人も同じ言葉を返した。抱き合うでも、涙ぐむでもなかった。三ヶ月間、毎日のように顔を合わせてきた相手との別れとしては、拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
「また、どこかで」
冬子がそう言って、軽く手を振った。
「うん、また」
悠人もそう返した。それが、約束というほどのものではないことは、二人とも分かっていた。ただの、旅の終わりの決まり文句だった。
搭乗口へ向かう冬子の背中を、悠人はしばらく見送った。振り返ることもなく、冬子は人混みの中に消えていった。悠人は、自分の中にある感情が何なのか、うまく言葉にできなかった。寂しさでもなく、安堵でもなく、そのどちらでもあるような、名前のつかない感覚だった。
十
「悠人?」
冬子の声で、また我に返った。居酒屋の喧騒が、耳に戻ってくる。
「あ、ごめん」
「今度は何、思い出してたの」
悠人はジョッキを見つめた。中身はもう、半分ほどに減っている。
「空港で別れたときのこと」
冬子は「ああ」と小さく言って、少し笑った。
「あっけなかったね、あれ」
「うん」
「今思うと、もうちょっと何か言えばよかったのかな、とか思うけど」
冬子がそう言ったとき、悠人は思わず顔を上げた。冬子もまた、あの旅のことを、何か言い残したまま終わらせたと感じていたのだろうか。
「冬子もそう思ってたんだ」
「え、悠人も?」
「うん、まあ」
二人はしばらく黙って、それぞれのグラスに口をつけた。店内の喧騒が、二人の間の沈黙を、それほど気まずいものにはしなかった。
「でもさ」冬子が言った。「あの山、結局晴れたじゃん」
「うん」
「あれだけでよかったのかもね。言葉とかより」
冬子の言葉は、悠人の魂に直接問いかけるようだった。あの山頂で言えなかったこと。今も、はっきりとした言葉にはできない。だが、あの時冬子と共有した景色、雨の中での三日間、ビザ待ちの宿での語らい。そのすべてが、実はもう、答えだったのではないか。悠人は、自分の中にあった「問い」が、いつの間にか「答え」へと変わっていたことに、初めて気づいた。
「大きなことをしたい」と思って旅に出た。だが自分が本当に確かめたかったのは、遠くの景色でも、自分の強さでもなく、誰かの隣を、逃げずに歩き続けられるかどうかだったのかもしれない。それに気づくのに、何年もかかった。
「冬子」
「うん?」
「今度、山、また行く?」
冬子は少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと笑った。
「行きたいの?」
「うん。天気、悪くてもいいから」
「地獄だよ、また」
「知ってる」
冬子は笑いながら、店員を呼んで、また二杯のビールを注文した。悠人は、まだ何も言えていない自分に、それでいいのだと、初めて思うことができた。言えなかった言葉は、消えたわけではない。ただ、今もまだ、隣にいる。
運ばれてきたジョッキを、二人はまた軽くぶつけた。グラスの音が、さっきよりも少しだけ、はっきりと響いた気がした。
(了)







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