ひとり分のビール
祖父の形見のベルトと、土曜日だけの儀式
タスクは終わらせられるのに、祖父の不在だけはどうしても終わらせられない男が、土曜日ごとにひとりで祖父のベルトを締め、ひとりで生ビールを飲む——喪失と継承を静かに描く物語。
第一章 土曜日の儀式
洗濯機が回る音で、瀬戸拓海は目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む光はもう白くて、時計を見なくても九時を過ぎているのがわかる。布団から出て、まず洗濯機を止め、乾いたタオルを畳む。シンクに溜まった皿は二枚だけだ。フライパンを洗い、水切りかごに立てる。掃除機を一往復させ、玄関の靴を揃え直す。すべて、決まった順番で、決まった時間でやる。
家事を終えると、拓海はレギンスに着替えて外に出る。近所の河川敷を走るのが土曜の運動だ。四十分。距離は測らない。ただ、息が上がって、何も考えられなくなる時間があればそれでいい。
走り終えて家に戻ると、シャワーを浴びて、クローゼットからいつもの服を出す。ジーンズに手を通し、ベルトを取る。茶色い革の、古いベルトだ。バックルには小さな傷がいくつもついている。誰のものでもない、拓海だけが知っている傷だ。
締める。いつもと同じ、三つ目の穴。カチ、と音がして終わる。
冷蔵庫を開けると、缶ビールが二本並んでいる。一本を取り出し、プルタブに指をかける。プシュ、という音と一緒に、冷えた泡の匂いが立つ。ベランダの椅子に座り、ひとくち飲む。
喉が鳴る。走ったあとの乾いた喉に、冷たいものが落ちていく感覚。これのために一週間があるとさえ思う瞬間が、拓海にはある。
ベランダから見える住宅街は静かだ。誰かの家の換気扇が回る音、遠くで犬が吠える声。拓海はそれを聞きながら、ゆっくりと缶を傾ける。
皿は二枚だけ洗った。だが、使うのは一枚だ。もう一枚は、洗う必要すらなかった。
第二章 平日、仕事の顔
月曜、拓海はいつもより早く出社する。
チームの朝会で、彼はいつも通り淡々と進行役を務める。誰かの意見と誰かの意見がぶつかりそうになると、拓海はさりげなく間に入る。
「A案のメリットは分かるんですが、リリース時期を考えるとB案の方が現実的じゃないですかね。両方の良いところ、少し混ぜられません?」
角が立たない言い方。誰も傷つかない言い方。拓海はそれが得意だった。得意すぎて、自分がいつからそうなったのか、もう覚えていない。
昼休み、スマートフォンに通知が来る。友人からのメッセージだった。
〈元気? 今度の土曜、空いてたら走る?〉
拓海はそれを見て、既読だけつけて、返信は後回しにする。悪気はない。ただ、何をどう返せばいいのか、少し考えてしまう。
午後、彼が長く担当している案件が、また止まる。原因不明のエラー。半年前から、直したはずが再発する。同僚が「これ、もう諦めて別の実装にしません?」と言うのに、拓海はうまく頷けない。
「もう少しだけ、粘らせてください」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。終わらせられるはずのものを、終わらせたくない気持ちが、どこかにあった。
夜、電車の中でようやく友人にメッセージを返す。
〈土曜は用事あるから、また今度〉
嘘ではない。ただ、その「用事」が何なのか、拓海は誰にも話したことがない。
第三章 緩んだ穴
その週の土曜も、いつも通り家事を終え、走り、シャワーを浴びた。
ベルトを取り、いつもの三つ目の穴に通そうとして、拓海は手を止める。
穴が少し広がっている。革の縁が擦り切れて、丸みを失っている。何度も同じ穴を使い続けたせいだ。
指でその穴を触る。革は柔らかく、少しべたついている。祖父の体には合っていたはずのこの穴が、今は拓海の腰回りにぴったりと合っている。
反対側を見ると、拓海が自分で開けた穴がある。四つ目。サイズが合わなくて、業者に頼んで新しく開けてもらった穴だ。革の断面はまだ新しく、色が周りより少し明るい。
ふたつの穴を、拓海はしばらく見比べる。
古い穴は、祖父のものだった。新しい穴は、拓海のものだ。
そのことに、これまで特に何も感じたことはなかった。ただの調整だと思っていた。だが今日は、なぜか手が止まる。
古い穴の縁は、もう擦り切れて頼りない。次にこのベルトを締める時、その穴はちゃんと機能するだろうか。
拓海はベルトを締めずに、しばらく椅子に座ったままでいた。
第四章 回想——ベルトを忘れた日
半年前のことだった。
実家から連絡が来たのは、月曜の朝五時だった。拓海はその日のうちに新幹線に乗った。喪服はクリーニング済みのものが自宅にあったから、それだけ持って家を出た。
実家に着いて、喪服に着替えようとしたとき、拓海は気づいた。ベルトがない。クリーニング袋の中を何度も探したが、入っていなかった。忘れたのだ。東京の部屋に。
時間はなかった。母は既に喪主の父と一緒に葬儀社の人と話していて、拓海が声をかけられる雰囲気ではなかった。
祖父の部屋に入る。ベッドはもう整えられていて、枕元の眼鏡だけがそのままだった。クローゼットを開けると、祖父のベルトが引っかけてあった。茶色い革の、使い込まれたベルトだった。
拓海はそれを取って、自分の腰に通した。
きつすぎるかと思ったが、意外と入った。祖父は最後の数年、痩せていた。三つ目の穴が、拓海の腰回りとほぼ同じだった。
鏡の前で、バックルを留める。カチ、という音がした。
それだけだった。誰にも聞かなかった。使っていいかとも、確認しなかった。ただ、締めて、喪服の上着を羽織って、部屋を出た。
葬儀のあいだ、拓海はそのベルトのことを一度も意識しなかった。意識してしまったら、何かが崩れる気がした。
第五章 回想——遺品整理の光景
葬儀から数日後、実家の居間で遺品の整理が始まった。
母が、祖父のたんすから服を出しては、父に見せていた。
「これ、着る? サイズ、お父さんに合いそうだけど」
「いや、いい。要らない」
「じゃあ処分するね」
そのやり取りは何度も繰り返された。感情のこもらない、事務的な声だった。母は涙を見せなかった。淡々と、服を畳んでは袋に入れていった。
拓海はその様子を、少し離れたところで見ていた。母の手つきに迷いはなかった。まるでいつもの家事の続きのようだった。
「お母さん、大丈夫?」
拓海がそう聞くと、母は顔も上げずに答えた。
「大丈夫って何が。やることがあるだけだから」
その日、祖母は居間の隅の椅子に座っていた。免許はもう三年前に返納していた。買い物も、病院も、母が車で送り迎えをしていた。祖父が生きていた頃は、祖父が運転していた。祖父が死んで、祖母は完全に、誰かに連れて行ってもらう立場になった。
祖母は遺品の山をぼんやり見ていたが、何も言わなかった。時々、誰かの名前を呼びそうになって、やめるような表情をした。
拓海は、母と祖母、二人の喪失の形がまるで違うことに、そのとき初めて気づいた。母は動くことで悲しみを処理していた。祖母は、動けないまま、そこに座っているしかなかった。
拓海自身がどちらでもないことに、その時は気づかなかった。
第六章 母との電話
土曜の夕方、拓海は母に電話をかけた。特に用件はなかった。ただ、なんとなくかけたくなった。
「うん、元気にしてる。仕事は忙しいけど、まあ大丈夫」
たわいもない話が続いた。祖母の体調、近所のスーパーが改装したこと、母が最近始めた散歩のこと。
ふいに、母が言った。
「あんた、まだあのベルト使ってるの」
拓海は一瞬、返す言葉に詰まった。
「うん。ちょうどいいサイズだから」
「そう」
それだけだった。母はそれ以上何も聞かなかった。拓海も、それ以上何も説明しなかった。
電話を切ったあと、拓海はしばらくスマートフォンを手に持ったままでいた。母が何を思ってその話をしたのか、分からなかった。ただ、責められているわけではないことだけは分かった。
窓の外はもう暗くなり始めていた。拓海はベルトを外して、椅子の背もたれにかけたまま、しばらく動かなかった。
第七章 ふたり分からひとり分へ
翌週の土曜、拓海は実家近くの祖父の家に行った。台所を片付ける手伝いをするためだった。母は仕事があって来られず、拓海が一人で作業することになった。
戸棚を開けると、醤油や味噌が、明らかに二人分の量で並んでいた。祖母と祖父、二人分の食卓のための量だ。今、祖母は市営住宅に近い母の家に身を寄せていて、この台所を使うことはもうない。
拓海は賞味期限の切れた調味料を、ひとつずつゴミ袋に入れていく。缶ビールが冷蔵庫の奥に三本、まだ残っていた。祖父が好きだった銘柄だ。
拓海はそれを手に取り、しばらく眺めた。捨てるべきなのは分かっていた。だが、手が動かなかった。
食器棚には、夫婦茶碗が二客並んでいた。片方は少し欠けていた。祖父がよく使っていた方だ。拓海はそれを新聞紙にくるみながら、ふと苛立ちのようなものを感じた。涙ではなく、もっと乾いた、行き場のない感情だった。
なぜこんなに丁寧に、誰も使わないものを包んでいるのか。捨ててしまえばいいのに、拓海はそれができなかった。
作業を終えて、拓海は祖父の缶ビールを三本、自分の鞄に入れて持ち帰った。理由は自分でもよく分からなかった。ただ、捨てることだけは、できなかった。
第八章 友人との時間
その週末、珍しく友人から連絡が来た。
〈近く通るから寄っていい?〉
拓海が家にいると答えると、三十分後にインターホンが鳴った。友人は缶コーヒーを二本持っていた。
「差し入れ」
そう言って、玄関先で一本を渡してくる。二人はそのまま玄関に座り込んで、缶コーヒーを飲んだ。
友人は特に何も聞かなかった。最近見た映画の話、仕事の愚痴、共通の知人の結婚報告。会話は特に深くならなかった。
帰り際、友人がふと言った。
「今度、また走ろうぜ。誘わなくても、来たくなったら連絡していいから」
それだけだった。返事を急かすでもなく、理由を聞くでもなく、友人は軽く手を上げて帰っていった。
拓海は玄関のドアを閉めて、しばらくそこに立っていた。何も聞かれなかったことに、少しだけ救われている自分がいることに気づく。誰かに説明しなくていいというのは、思っていたより、ありがたいことだった。
第九章 ひとり分のビール
次の土曜、拓海はいつも通り家事を終え、走り、シャワーを浴びた。
ベルトを手に取る。緩んだ三つ目の穴を、もう一度見る。このまま使い続ければ、いずれ革が裂けるだろう。
拓海は工具箱から千枚通しを取り出した。ベルトを裏返し、三つ目の穴と四つ目の穴のあいだ、少しずらした位置に、新しい印をつける。
一度、深呼吸をする。それから、穴を開けた。
革を貫く感触が、手のひらに伝わる。開いた穴は、まだ角が立っていて、少し不格好だった。
拓海はベルトを腰に通し、その新しい穴にバックルを留める。カチ、という、いつもと同じ音がした。
鏡を見る。緩んでいたベルトが、今度はちゃんと体に合っていた。祖父の穴でも、業者に開けてもらった穴でもない。自分の手で開けた穴だ。
冷蔵庫を開ける。缶ビールは、いつもの二本と、先週持ち帰った三本が並んでいた。拓海はそのうちの一本、祖父の好きだった銘柄を手に取る。
ベランダに出て、椅子に座る。プルタブを起こすと、プシュ、という音がして、白い泡がわずかに缶の縁からあふれた。
ひとくち飲む。
喉が鳴る。乾いた喉に、冷たいものが流れ落ちていく。いつもと同じ味のはずだった。だが、少しだけ、違う気がした。
これは、もう祖父の続きではない。かといって、祖父を忘れたわけでもない。ただ、このベルトを、この土曜日の時間を、拓海は自分のものとして、これから先も締め続けていくのだろうと思った。
空の缶を、ベランダの床にそっと置く。住宅街はいつも通り静かで、どこかの換気扇の音と、遠くの犬の声が聞こえていた。
拓海はもうひとくち、ビールを飲んだ。







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