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二日酔いの満員電車を描く短編小説|曲が切り替わるまで

2026年10月30日金曜日

IT系会社員 いいちこ くすっと笑える バーベキュー ヒューマンドラマ フィクション 実体験 小説 短編小説 通勤 二日酔い 満員電車 友人

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曲が切り替わるまで|二日酔いの満員電車を描く実体験ベースの短編小説

バーベキューの翌朝、二日酔いのまま満員電車に乗ると、時間の感覚が消えた。実体験をもとにした約11,000字の短編小説です。

あらすじ:二日酔いの朝、満員電車と友人の優しさ

河川敷のバーベキューで、昔失敗した酒に手を伸ばした35歳のIT系会社員・渚。翌朝、食欲のないまま乗った満員電車で、片耳のイヤホンから流れる曲が止まったように感じ始める。夢の中のような一日を、おにぎり一個で乗り切るまでの物語。

本編:二日酔いの朝、満員電車で時間が止まった一日

第一章 河川敷のバーベキュー、夕暮れの笑い声

炭に火がまわるまで、四十分かかった。

うちわであおいでいるのは三田村悠で、渚は紙皿を配っていた。十五人分の紙皿と割り箸と、紙コップ。河川敷の草は夕方の光を吸って薄い金色になり、クーラーボックスのふたを開けるたびに、氷の崩れる小さな音がした。

「渚、コップ足りてる?」

「足りてる足りてる。足りなかったら手で飲め」

どこかで誰かが笑った。渚はその笑い声が消えないうちに、次の一言を探した。笑いが起きたら、その上にもうひとつ乗せる。そうして場が回り続けるのを、渚は昔から得意にしていた。

十五人のうち、渚が名前まで言えるのは十人ほどだった。大学の頃からの輪に、誰かが連れてきた誰かが混ざり、その誰かがまた別の誰かを呼ぶ。肉を焼く煙の向こうで、知らない顔が知らない顔と笑っている。それでも渚が一声かけると、みんな一斉にこちらを向いた。

「じゃあ、そろそろ乾杯しますか。幹事じゃないけど」

「お前が仕切るんかい」

紙コップがぶつかる、頼りない音がした。

少し離れた折りたたみ椅子に、大橋圭が座っていた。膝の上に紙皿を置き、焼けたピーマンを食べている。渚と目が合うと、大橋は箸を持ったまま、軽く片手を上げた。

「渚、ちゃんと食ってる?」

「食ってる食ってる」

実際には、渚の紙皿にはピーマンが一切れ載っているだけだった。肉を焼く人に皿を渡し、飲み物を配り、誰かの話に「それ最高」と返しているうちに、自分の分を取りに行く暇がなかった。大橋はそれ以上、何も言わなかった。

川の上には鉄橋がかかっていた。夕日に染まった電車が一本、ゆっくりと橋を渡っていく。ガタン、ガタン、と遅れて音が届き、肉の焼ける音に混ざって、また遠くなった。渚は、その音をなんとなく目で追った。

「そういえば渚さん、お酒強いんですよね」

知らない顔の若い男が、焼き台の向こうから言った。強いと言った覚えはなかったが、誰かがそういう話をしたのだろう。渚は紙コップのビールを一口飲み、少し間を置いた。

「強いっていうか、昔、いいちこでやらかしたことがあってさ」

「いいちこ?」

「焼酎。二十四のとき。一本空けて、次の日会社の階段を上ってたら、一段ごとに地面が一回ずつ下がるんだよ。エレベーター待ちの列に並んでる連中を横目に、自分だけ上に向かって沈んでんの」

どっと笑いが起きた。若い男は手を叩いている。渚は、笑いの形が少しだけ変わるところまで待ってから、最後の一言を置いた。

「だからあれは、俺の中で神聖な酒」

「意味わかんねえ」

笑い声に、うちわの風が混ざった。

大橋が椅子の上で小さく肩を揺らしていた。その横を通りかかった三田村が、トングを持ったまま立ち止まった。

「その話、何回目だっけ」

「初見の人もいるから」

「十年前から数えると、俺は十一回聞いてる」

「数えてんのかよ」

「数えさせられてんの」

三田村は笑わなかった。トングで肉をひっくり返し、炭の上に脂が落ちて、白い煙が上がった。その煙の向こうで、三田村の目だけが、一度だけ渚の紙コップに向いた。

日が落ちる頃、クーラーボックスの底に残っているのは、水と、溶けかけた氷と、誰も手をつけない缶チューハイが二本だけになった。

「酒、なくなったな」

「買い出し行く?」

「めんどい」

そんなやりとりが、煙の中を何度か往復した。橋の上を、さっきと同じ色の電車が、反対向きに走っていった。

第二章 二日酔いの朝、食欲がない洗面所

アラームを止めたとき、画面の数字は六時四十分だった。

渚は布団の中で、天井の染みをしばらく見ていた。染みの形は昨日と同じで、それが妙に腹立たしかった。体を起こすと、頭の奥で何かが一拍遅れて動いた。枕元のスマホには、昨日の集まりのグループに、スタンプがいくつも並んでいた。「ありがとう」「楽しかった」「また来月」。渚は、どれにも返さないまま、画面を伏せた。

洗面所の電気をつけると、鏡の中の顔は、いつもより少しだけ縮んで見えた。歯ブラシに歯磨き粉を出す。いつもの量。いつもの順番で、奥歯から前歯へ。ミントの味が、今日は口の中で浮いていた。うがいをして、タオルで口を拭く。ここまでは、いつも通りだった。

台所の机には、昨日のうちに買っておいた食パンが置いてあった。トースターに入れ、タイマーを回す。回している間に、冷蔵庫を開けて牛乳を出した。パックの口を開けた瞬間、匂いが鼻の奥を押した。渚は、そっとパックを元の位置に戻した。

トーストが焼けて、跳ね上がった。きつね色のそれを皿に載せる。バターを塗る。テーブルに座る。ひと口分をちぎって、口の前まで運んで、そこで手が止まった。

パンは、パンの形をしていた。それだけだった。口に入れるものとして、体がどうしても受け取らなかった。

渚は皿を少し遠くへ押した。代わりにコップを取り、水道の水を汲んだ。冷たい水を、ひと息に半分飲む。腹の中に、冷たい塊が落ちていくのがわかった。胃が膨らめば、食べたことになるかもしれない。そう思って、もう半分も飲んだ。

三杯目の途中で、体が先に答えを出した。

洗面所まで、廊下は五歩しかなかった。

蛇口をひねる音が、薄い壁に響いた。水は勢いよく流れ続け、その下で、渚は洗面台の縁を両手でつかんでいた。しばらくのあいだ、部屋の中には水の音しかなかった。隣の部屋で、洗濯機が回り始めた。蛇口を閉めると、急に静かになった。冷蔵庫のモーターの音が、遠くで低く続いていた。

口をすすいで、顔を上げる。鏡の中の人間は、さっきより少しだけ、ましな顔をしていた。

居間に戻ると、トーストはすっかり冷めていた。渚はそれをラップで包んで、鞄に入れた。昼に食べればいい、と思った。思っただけで、食べる自分の姿は想像できなかった。

引き出しから、鎮痛薬の箱を出した。裏の注意書きに、小さな文字で「空腹時をさけてください」とある。渚はその一行を、最後まで読んだ。読んでから、水で錠剤を流し込んだ。

「……まあ、一回くらい」

誰にともなくそう言って、箱を引き出しに戻した。

玄関の靴箱の上に、ワイヤレスイヤホンが置いてある。左右のうち、右は三週間前から鳴らなくなっていた。買い換えようと思っているうちに、三週間たった。渚は、鳴る方の左耳にだけ、それをはめた。

ドアを開けると、朝の空気が頬に当たった。思ったより、冷たくなかった。

第三章 満員電車のホーム、止まった曲

駅のホームは、人の頭の高さで揺れていた。

渚は白線の内側、三人目の列に並んだ。電光掲示板の数字が、一分ごとに変わる。次の電車まで、あと二分。その二分が、いつもより長かった。前に立つ男のスーツから、防虫剤の匂いがした。後ろの女性のイヤホンから、小さな音が漏れている。

電車が入ってくると、風が先に来た。ドアが開き、中から人が押し出され、入れ替わりに、渚の後ろの人間が背中を押した。足がもつれる前に、体は車内に収まっていた。つり革は、もう全部埋まっている。渚はドアの横の手すりに背中を預けた。

ドアが閉まる。電車が動き出す。

左耳に、英語のポップスが流れていた。女性の声と、軽いドラムと、乾いたギター。普段なら、この曲で少しだけ気分が上がる。今日は、音が耳の表面を滑って、どこにも届かなかった。右耳は静かだった。静かな右側に、周りの咳や、鞄が擦れる音や、誰かの吐息が、直接流れ込んでくる。

曲は、サビに入った。

渚は、それを聞いた。しばらくして、また別の部分に入った。Aメロが戻ってきたような気がして、でも、それが本当にAメロなのかどうか、わからなかった。駅をひとつ過ぎた。窓の外を、看板と屋根と電線が横に流れた。曲は、まだ同じだった。

さっきから、何分たったのだろう。腕時計を見ようとしたが、腕を上げるには、人の肩が邪魔だった。スマホを出す隙間もなかった。車内アナウンスが、次の駅名を告げた。聞き慣れた声なのに、文字に直せなかった。音だけが、耳を通り過ぎていった。

窓ガラスが、人の息で少し曇っていた。誰かの香水と、濡れた傘の匂いと、朝の整髪料の匂いが、同じ温度で混ざっている。首の後ろに汗がにじんだ。渚は、その汗が冷たくなっていくのを、他人事のように感じていた。

目の前の窓に、満員の車内が映っている。眠そうな顔、スマホの光、黒いコートの背中。その中に、自分の顔もあった。顔の位置だけ、ほかの人より半拍遅れて揺れている気がした。

曲は、まだ同じところを回っている。

ドラムが入る。ギターが重なる。女性の声が、同じ高さに上がる。さっきも、その前も、そうだった。一駅が三分にも、三十秒にも感じられた。数えようとすると、数がほどけた。

夢の中の一瞬のようだ、と思った。夢の中では、一瞬で駅をいくつも過ぎる。目が覚めれば、一秒もたっていない。それが今、目を開けたまま起きている。

電車が揺れた。つり革が、いっせいに同じ方向へ傾いた。

その傾きに合わせて、渚の意識も、どこかへ傾いた。

ガタン、ガタン、と車輪の音が遠くで聞こえた。あの鉄橋の音に、似ていた。

第四章 前夜のいいちこ、紙コップの一杯

日が落ちて、川は黒くなった。

誰かが持ち寄ったランタンの灯りが、草の上に丸い光を落としている。肉はもう残っておらず、焼き台の上で、炭だけが赤く呼吸していた。草の上に寝転んだ誰かが、スマホのスピーカーで小さく音楽を流している。それに合わせて、誰かが調子外れの鼻歌を歌った。

「酒、ほんとにないの」

「ない。ビールもない。チューハイは、甘いやつが二本だけ」

「甘いのは、無理」

十五人の声が、少し減っていた。何人かは先に帰り、何人かは草の上に寝転んで、星があるかどうかを話していた。

渚はクーラーボックスのふたを開けた。水に浮いた氷の欠片が、ランタンの光を受けて、ゆらゆら動く。その横に、ビニール袋に包まれた瓶が、一本だけ立っていた。

「これ、誰の?」

袋の口をほどくと、透明な瓶に、見慣れたラベルがあった。いいちこ、と書いてある。

「知らん」

「誰かが持ってきたんじゃない」

「誰か、な」

三田村は、うちわを置いたまま、そのやりとりを見ていた。渚が瓶を持ち上げると、中身が重たく揺れた。ほぼ、新品だった。

「うわ、いいちこじゃん」

渚は、声を少しだけ高くした。

「これ、俺の神聖な酒じゃん」

「出た」

「武勇伝の主役」

周りから笑いが起きる。渚は、その笑いの真ん中に瓶を掲げた。思ったより、腕に重かった。ここで下ろせば、さっきの話が、途中で終わってしまう。

紙コップを取る。氷を入れかけて、やめる。氷は、さっきから溶けて、ほとんど水だった。そのまま、瓶の口を傾ける。透明な液体が、紙コップの底に、とくとくと音を立てて溜まった。三分の一。半分。少し迷って、半分より少し上まで。

顔を上げると、三田村と目が合った。

三田村は、何も言わなかった。うちわを持ったまま、ただ、渚の手元を見ていた。口が一度だけ開いて、閉じた。

「……氷、いる?」

「いらない。溶けてるし」

「そっか」

それだけだった。三田村は、視線を炭に戻した。

渚は、紙コップを口に運んだ。麦の匂いがした。昔、嗅いだ匂いだった。喉を通ると、遅れて、熱が胸の真ん中に落ちた。

「あ、これだ」

思わず、声が出た。

「何が」

「この感じ。うわ、懐かしい」

笑いが起きた。渚は、もう一口飲んだ。周りの声が、少しだけ柔らかくなった。何を話しても、誰かが笑ってくれる。そういう夜の入口に、渚は立っていた。

大橋だけが、椅子の上で、静かに笑っていた。膝の上の皿は、もう空だった。

遠くの鉄橋を、また電車が渡った。さっきより、音が小さく聞こえた。

第五章 満員電車で押し出され、乗り直す

次の駅で、電車が止まった。

ドアが開くと同時に、渚の周りの人間が、いっせいに降りようとした。背中を、誰かの肩が押す。足が前に出る。気づいたときには、ホームの上に立っていた。白線の外側で、人の流れが渚を避けていく。

降りる気は、なかった。

発車を知らせるメロディが鳴り始める。渚は、反射のように車内へ戻った。戻ったところで、後ろから乗り込んでくる人の体に、また押される。さっきまで背中を預けていた手すりは、もう別の誰かのものになっていた。渚は反対側のドアの近くまで流されて、窓に額がつきそうな場所に収まった。

ドアが閉まった。左耳の曲は、まだ同じところにいた。

ホームに降りて、戻っただけなのに、時間が巻き戻ったような気がした。さっきと同じ駅を、さっきと同じ順番で過ぎていく。いや、違う。駅名は違う。違うはずなのに、窓の外の看板の色が、さっきの駅とまるで同じに見えた。渚は、通り過ぎた駅の数を指で数えようとした。三本目の指を折ったところで、どこまで数えたのか、わからなくなった。鼻の奥で、麦の匂いがした。気のせいだった。朝から、水以外、何も口に入れていない。

「渚、帰るぞ」

河川敷の片づけが終わりかけた頃、三田村がゴミ袋の口を縛りながら言った。渚はまだ、紙コップを持っていた。中身は、もうほとんど残っていなかった。

「おう。先行ってて」

「先に行っても、お前、動かないだろ」

「動く動く」

三田村は袋を足元に置いて、渚の隣に立った。川の向こうで、街の灯りがにじんでいる。ランタンの電池が切れかけて、草の上の光が、少しずつ黄色く弱っていった。しばらく、どちらも何も言わなかった。

「明日、会社だよな」

「そりゃそうだよ。月曜だし」

「電車で行くんだよな」

「他になにで行くんだよ」

「……そっか」

三田村は、紙コップの底をちらりと見た。

「それ、話になる量にしとけよ」

「なんの話」

「明日、俺らに話すとき。笑える量にしとけって」

渚は、少し黙った。紙コップを、手の中で回した。

「笑える量って、どれくらい」

「知らん。ただ、潰れた話は、聞いてて笑いにくい」

そう言うと、三田村はゴミ袋を持ち上げ、先に土手を上がっていった。草を踏む足音が、遠ざかった。渚はそのまま、紙コップの底に残っていた分を、飲み干した。

電車が、また揺れた。

ガタン、という音で、渚はまぶたを一度閉じて、開けた。ドアの上の路線図で、次の駅の名前が点滅していた。そこが、会社の最寄りだった。

第六章 二日酔いのままオフィスへ、話し下手なIT職場の静けさ

会社は、駅から歩いて七分のビルの五階にあった。

歩いている間、左耳の曲は、ずっと鳴り続けていた。外すのを、忘れていた。音量はいつの間にか小さくなっていて、渚にはそれが、遠い部屋のテレビのように聞こえた。

エレベーターは混んでいた。渚は階段を選んだ。二段目で、自分が何をしているのか、わからなくなった。昔の話を思い出した。一段ごとに地面が下がる、あの話。今、実際に下がっているのは、足元ではなく、時間のほうだった。五階の扉を開けると、キーボードの音が、すでに部屋を満たしていた。

誰も顔を上げなかった。おはようございます、と声に出す人も、ほとんどいない。渚は小さく頭を下げながら、自分の席に着いた。パソコンの電源を入れる。起動を待つあいだ、隣の席で今井が、モニターに向かって指を動かしていた。画面には、細かい文字がびっしり並んでいる。

「おはようございます」

「……おはようございます」

今井は画面から目を離さずに答えた。それが、今日の会話の、半分だった。

メールを開く。チャットを開く。未読が十一件。そのうち九件は、「了解です」とだけ書かれた返信だった。渚は、順番に目を通した。文字は、読める。意味も、わかる。ただ、文字と意味のあいだに、薄いガラスが一枚はさまっているようだった。

コードを開く。昨日の差分を確認する。変数の名前、条件分岐、括弧の位置。細かい誤りを見つけるのは、渚の得意なことだった。今日は、その目が、いつもより遠くから動いていた。それでも、一か所、閉じ括弧が足りないのを見つけた。直して、保存した。

夢の中でも、仕事はできるらしい、と思った。

十時の定例会議は、画面越しだった。進捗を順番に報告して、質問がなければ次の人。誰かが話し終わると、短い沈黙が落ちる。沈黙のあいだに、渚は水を一口飲んだ。コップの水が、舌の上で少しだけ重かった。

「久保田さん、以上ですか」

「はい、以上です」

自分の声が、他人の声のように聞こえた。それでも、会議は、何事もなく終わった。誰も、渚の顔色について、何も言わなかった。言わないのではなく、見えていないのかもしれなかった。それは、今日に限っては、ありがたいことだった。

席に戻って画面を見ているうちに、昨夜の、駅までの道が浮かんできた。

解散のあと、大橋と二人で、駅までの暗い道を歩いた。街灯が、等間隔で並んでいた。足音が二人分、少しずれて響いた。

「今日も、盛り上げ役だったね」

「勝手に任命すんなよ」

「俺、渚の話、聞くの、好きなんだよ」

大橋は、前を向いたまま言った。

「毎回同じだけどさ」

「毎回同じは、余計だろ」

「うん。余計だった」

大橋は、笑った。それから、少しだけ歩く速さを落とした。

「でも、聞くのは好きだよ。それは、ほんと」

渚は、何かを返そうとして、やめた。ポケットの中で、鍵が小さく鳴った。

「……いいちこの話、あれ、ちょっと盛ってるだろ」

「何分の一かは」

「だよな」

それだけの会話だった。改札の前で別れるとき、大橋は軽く手を上げた。渚も、同じように手を上げた。階段を降りていく大橋の背中は、いつもと同じ速さだった。

モニターの端で、時計の数字が、十一時を過ぎた。隣では、今井の指が、同じ速さで動き続けている。渚は、ふいに、その音に自分の呼吸を合わせていることに気づいた。キーボードの音が、波のように、規則正しく続いていた。

第七章 昼の席でおにぎり1個、和風ツナマヨ

正午のチャイムは、鳴らない会社だった。

立ち上がる人も、ほとんどいない。画面の前で、コンビニの袋を開く音が、あちこちで小さく聞こえ始める。渚は、鞄の中を探った。朝のトーストを、ラップごと取り出す。それを見ただけで、体が、後ろに下がった。

「……無理」

声に出したのは、初めてだった。トーストを鞄に戻し、財布を持って、立ち上がった。

一階のコンビニは、昼休みの前から、すでに列ができていた。弁当の棚は、半分ほど空だった。ペットボトルの棚の前で、渚は十秒ほど立ち尽くした。それから、おにぎりの棚に、手を伸ばした。梅、鮭、明太子。どれも、今日の口には、重そうに見えた。

端に、和風ツナマヨが一つだけ残っていた。

パッケージの隅に、小さな文字で「だし醤油仕立て」と書いてある。渚は、それを手に取った。これなら、少しは入るかもしれない。理由は、それだけだった。

席に戻ると、隣の今井は、サンドイッチを食べながら、まだ画面を見ていた。

渚は、袋からおにぎりを出した。フィルムの端を引く。ビリ、と小さな音がした。静かな部屋では、その音が思ったより大きかった。隣で、今井の指が、一瞬だけ止まった。視線が、ほんの少しだけこちらを向いた。渚は、気づかないふりをした。今井の目は、すぐに画面へ戻り、キーボードの音が、再び始まった。それで、すべてだった。

海苔を巻き、一口、かじる。

ごはんの甘さが、先に来た。それから、ツナと、マヨネーズと、だしの香り。噛むたびに、舌の上で、味が少しずつ、形になった。唾が出る。喉が動く。飲み込んだものが、胃の中に、静かに落ちていく。落ちたものは、もう、戻ってこなかった。

もう一口。もう一口。

気づくと、手の中に、フィルムだけが残っていた。

その瞬間だった。

左耳の中で、聞いたことのない音が、始まった。ドラムも、ギターも、女性の声も、違っていた。さっきまでの曲は、どこへ行ったのか。いつから、終わっていたのか。何曲、過ぎたのか。それとも、ずっと止まったままで、今、初めて動いたのか。渚には、わからなかった。ただ、知らない曲のイントロが、左耳の奥で、軽く跳ねていた。

渚は、鎮痛薬の注意書きを思い出した。空腹時をさけてください。

「……やっと、食後か」

小さな声で、呟いた。

隣で、今井のキーボードの音が、一瞬だけ、乱れた。今井は、何も言わなかった。渚も、何も言わなかった。窓の外では、昼の光が、向かいのビルの壁を白く照らしていた。

第八章 夕方の通知、友人の「生きてるか」

午後は、思ったよりも、静かに過ぎた。

三時を過ぎると、画面の文字が、また近くに戻ってきた。渚は、残りの案件を片づけ、メールに返事を書き、チャットに「了解です」を三回打った。定時の少し前、今井が先に席を立った。通りすがりに、小さく言った。

「お先に失礼します」

「お疲れさまでした」

それが、今日の会話の、残りの半分だった。

六時を回った頃、渚はパソコンを閉じた。鞄を持ち、エレベーターに乗り、一階へ降りた。外は、もう暗くなり始めていた。駅へ向かう道で、ポケットの中のスマホが、一度だけ震えた。画面に、三田村の名前が出ていた。

「生きてるか」

たった四文字だった。渚は、歩道の端で立ち止まった。街灯の下で、画面を見つめた。指が動く。「実は朝、」と打って、消した。「死にかけた」と打って、消した。画面の上で、何度か、文字が現れては消えた。

最後に、渚は、短く打った。

「武勇伝が、ひとつ増えた」

送信すると、すぐに既読がついた。三田村の返信は、早かった。

「笑える量か」

「ギリ。ツナマヨで助かった」

「意味わかんね」

「今度話す」

それ以上は、続かなかった。渚はスマホをポケットに戻し、少し迷ってから、もう一度取り出した。親指が、画面の上で、止まった。

「次は、割るわ」

送った。数秒後、返信が来た。

「嘘つけ」

渚は、道の真ん中で、小さく笑った。笑ったら、腹の奥が、ほんの少し痛んだ。

帰りの電車は、行きより空いていた。座席の端が、一つだけ空いている。渚は、そこに腰を下ろした。左耳には、昼の知らない曲が、まだ続いていた。曲は、ちゃんと曲の形をして、次の曲へつながっていった。ドアのガラスに、朝と同じ顔が映っていた。今度は、半拍も遅れていなかった。

電車が、橋に差しかかった。

窓の外が、ふっと開けた。黒い川と、その向こうの街の灯り。川沿いの草むらに、ひとつだけ、ランタンのような光が見えた。誰かが、まだ、そこにいるのかもしれない。

ガタン、ガタン、と車輪が鳴った。

昨日の夜、あの河川敷で聞いた音の中に、今、自分がいた。渚は、窓に頭を預けて、その音を、最後まで聞いた。

この短編小説について:同じ失敗を繰り返す愛おしさ

二日酔いの満員電車、片耳だけ鳴るイヤホン、聞き上手の友人。実体験をもとに、同じ失敗を繰り返してしまう人の一日を描いたフィクションです。登場人物と出来事は、一部を創作しています。

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