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試験前日に火事…受験料がもったいなくて受けた資格試験【短編小説】

2026年9月26日土曜日

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試験前日に火事…受験料がもったいなくて受けた資格試験【短編小説】

実体験をもとにした短編小説です。資格のノルマ、休日を削った勉強、試験前日の火事、そして返金できない受験料。全8章

あらすじ|資格試験の前日に隣の家が火事になった会社員の物語

会社のノルマで資格試験を受けることになった営業事務の岸本澪。休日を削って勉強を続けた試験前日の夜、風呂場で火災警報器が鳴り、外に出ると隣の家が燃えていた。翌朝、受けるのをやめようとした澪を動かしたのは、返金できない受験料一万二千円だった。

第一章 玄関の朝|試験当日の朝、受験料は返金できなかった

日曜の朝、六時四十分。岸本澪は、玄関の段差に座っていた。

スニーカーは揃えて置いてある。足はまだ入っていない。右手にはクリアファイルが握られていて、中には受験票が一枚入っている。角が少し折れていた。昨夜、握ったまま外に出たせいだ。

ドアの向こうから、焦げた匂いが染みてきていた。ゴミ袋の口を開けたときの匂いに似ているが、それより乾いていて、鼻の奥にざらりと残る。窓は全部閉めてあるのに、部屋の中にも薄く入り込んでいた。髪からも、ほんの少し匂った。寝癖は右側だけ、派手に跳ねている。

試験当日の朝、受験料の返金を検索してみた

スマートフォンを取り出して、検索欄に「試験 当日 欠席 返金」と打った。

上から三番目に、受験案内のページが出た。開く。

『お申し込み後の受験料は、いかなる理由でも返金できません』

いかなる理由でも。澪は、その一行を指でなぞって、もう一度読んだ。いかなる理由の中に、隣の家が燃えた、は含まれるだろうか。含まれないとは書いていない。書いていないなら、たぶん含まれる。

受験料は、一万二千円だった。

ドアを少しだけ開けた。冷たい空気が隙間から流れ込んで、匂いが濃くなる。

隣の家の外壁は、二階の窓の下あたりまで黒く煤けていた。台所の窓は、枠だけになっている。玄関先に水たまりが残っていて、朝の薄い光がそこに白く映っていた。昨夜張られていた黄色と黒のテープは外されたらしく、門柱に、短い切れ端が結ばれたままになっている。風が吹くたびに、それが小さく揺れた。

誰もいなかった。道の向こうで新聞配達のバイクが止まって、また走っていった。

澪はドアを閉めて、段差に戻った。

試験を休む理由なら、いくらでもあった

行かない理由なら、いくらでもあった。火事があった。寝ていない。家の前がこの状態で、留守にするのは不用心だ。どれも嘘ではないし、会社の誰に話しても、それは仕方ないよね、と言ってもらえる。宮下課長なら「いや、全然いいよ」と言うだろう。強制じゃないんだから、と。

それが、いちばんいやなところだった。

寝ていない、というのは、正確には少し違った。頭の芯が妙に軽い。それは今は考えないことにして、澪はスマートフォンの画面を消した。また点けた。六時四十六分。受付は九時から。会場までは、電車で四十分。乗り換えはない。

クリアファイルの中で、受験票の顔写真がこちらを見ていた。三か月前に撮った証明写真で、少し笑って見える。撮ったとき何を考えていたのか、澪は思い出せなかった。

「……一万二千円」

声に出すと、思ったより間の抜けた響きがした。靴箱の上で、鍵についたキーホルダーが、小さく鳴った気がした。

昨日の夜のことを順番に思い出そうとして、澪は、目を閉じた。

第二章 前の日の夜|資格のノルマで休日を勉強に削る

土曜日は、朝から机の前にいた。

ローテーブルに、参考書が三冊。いちばん分厚い一冊には付箋が十七枚貼ってあって、赤が重要、黄色がたぶん重要、青は自分でも何のために貼ったのかわからない。過去問は二周した。二周目の正答率は、七割を少し超えたところで止まっている。

コーヒーは、昼に淹れたものがそのまま冷めて、マグカップの底に薄い膜を張っていた。

資格試験の勉強と、休日を削る眠気

眠かった。

眠気は波のように来るのではなく、床がだんだん傾いていくように来る。三行読むと、文字が紙の上で滑る。四行目には、同じ行をもう一度読んでいる。頬をつねって、立ち上がって、洗面所で顔を洗って、戻ってきて座る。二分で、また傾き始める。

窓の外から、隣の家のテレビの音が、かすかに聞こえていた。バラエティ番組の笑い声。澪は、その家に誰が住んでいるのか、よく知らない。表札は雨で滲んでいて、一文字目しか読めない。引っ越してきて二年、玄関先で姿を見かけたのは、二、三回だったと思う。灰色のカーディガンを着た、小柄な人。

「債務不履行」

声に出して読んでみる。意味は、わかる。わかるのに、言葉が口の中で、味のしないガムみたいになる。

千秋の声が、頭の中で勝手に再生された。

『あれ、意外と簡単だったよ。ていうか、ほとんど勉強してないし』

先月の給湯室だった。千秋は同期で、隣の島の営業サポートで、去年のうちに、その資格を取っている。紙コップにティーバッグを沈めながら、本当に何でもないことのように言った。悪気は、たぶんない。いや、確実にない。それが厄介だった。

『岸本さんも来月受けるんでしょ。大丈夫、大丈夫』

大丈夫は、二回もいらなかったと思う。

資格のノルマは「強制じゃない」お願いだった

課長の声のほうは、もっと丁寧だった。

『悪いけど、今期中にお願いね。いや、強制じゃないから。あくまでお願い。ただ、評価にはまあ、ちょっと関わるっていうか』

宮下課長は、悪い人ではない。声を荒らげたところを、見たことがない。部下の誕生日は覚えているし、ノルマの話をするときは、必ず先に「ごめんね」と言う。だから、断れなかった。断る理由が、どこにも置いていなかった。

「まじ最悪」

澪は、参考書に向かって言った。誰に向けたのでもなかった。休日が二回分、この分厚い本に吸い込まれていった。洗濯物は、昨日から乾燥機の中で、丸まったままになっている。

夕方になって、部屋が暗くなったことに気づいて、電気を点けた。冷凍庫のパスタを茹でて、立ったまま食べた。食べ終わる前に、もう机に戻っていた。

スマートフォンが震えたのは、八時四十一分だった。

麻里からだった。

『明日だね。無理しないでね』

澪は、画面を見た。

短い文だった。麻里はいつも短い。四年前も、これくらいの長さだった気がした。

指が返信欄に「がんばる」と打って、途中で止まった。消して、「ありがと」と打った。それも少し眺めてから、後ろに「!」を足して、送った。

既読は、すぐにはつかなかった。

澪はスマートフォンを裏返して、参考書に戻った。五行読んだところで、また床が傾いた。

十時になったら風呂に入ろう、と決めた。風呂に入って、目を覚まして、それから一時間だけやる。それで今日は終わりにする。

時計が十時を回った。澪は、ペンを置いた。

第三章 警報器|風呂の最中に火災警報器が鳴った

湯船に浸かると、体の芯から力が抜けた。

バスタブは狭い。膝を曲げても、肩まで沈むと湯が顎に触れる。浴室の小窓は曇っていて、外の暗さが、乳白色に溶けていた。換気扇は回しっぱなしにしてあって、低い唸り声を立てている。

澪は湯の中で、頭の中の参考書を開いた。

「契約の、成立、要件」

目を閉じたまま、指を折る。一つ、二つ。三つ目が出てこない。湯気が顔にまとわりつく。四つ目、と考えたところで、自分が三つ目をまだ思い出していないことに気づいた。

まぶたが重くなる。

このまま寝たら、溺れるだろうか。溺れないだろう。顎が沈む前に、たぶん目が覚める。そういう根拠のない安心感が、湯の中にはある。

火災警報器の音と、換気口から入ってくる焦げた匂い

ピーッ。

音は、天井のほうから落ちてきた。

澪は目を開けた。

ピーッ。ピーッ。短い間隔で、高い音が繰り返される。浴室の天井ではない。廊下か、居間か。部屋の警報器だ。

『火事です。火事です』

音声が入った。機械の、平坦な女の声だった。

電池が切れたのかな、と思った。半年前にも一度、夜中に鳴ったことがある。あのときは椅子に乗って、ボタンを長押しして止めた。

『火事です。火事です』

止まらない。

声は、浴室のドア越しにも、少しも弱まらなかった。壁の向こうの、外のほうから、犬の吠える声が聞こえた。誰かが走る足音。ドアの閉まる音。もう一度、閉まる音。

浴室の中では、換気扇の唸りだけが、変わらずに回っている。そのとき、鼻の奥に、湯気とは違う匂いが引っかかった。

甘くて、焦げていて、ほんの少しだけ薬品のような。

換気口から、入ってきている。

澪は、湯船の中で立ち上がった。お湯が、音を立てて落ちた。バスタオルをつかんで、体を拭いて、もう一度匂いを嗅いだ。気のせいではなかった。

脱衣所で下着をつけ、洗濯かごの上に置いてあったスウェットの上下を引っ張り出した。腕が袖に引っかかる。濡れた肌に布が張りついて、なかなか通らない。髪から水が首筋を伝って、背中へ流れ落ちた。

廊下に出ると、警報器は白く光っていた。声はまだ言っている。『火事です』

玄関で、澪は、何かを持たなければいけないと思った。財布。鍵。スマートフォン。順番に手に取った。ローテーブルの上のクリアファイルにも、手が伸びた。理由は、わからなかった。中に、受験票が入っていた。

サンダルを突っかけて、ドアを開けた。

冷たい空気が、濡れた髪に突き刺さった。

第四章 外の夜|試験前日に隣の家が火事になった

外は、思っていたよりも明るかった。

街灯の白とは違う、赤みを帯びた光が、アパートの前の道に揺れていた。光は、隣の家の、台所のある側の窓から漏れている。窓の向こうで、何かが橙色に踊っていた。ガラスの内側には煙が溜まって、黒い布を押しつけたようになっている。

サイレンは、まだ聞こえなかった。

隣の家の火事に集まった近所の人たち

道には、すでに何人か出ていた。向かいの家の男性が、ジャージ姿で腕を組んでいる。犬を連れた女性は、犬より先に立ち止まって、口に手を当てていた。パジャマの上にダウンを着た小学生くらいの子が、母親の腰に張りついている。

「あらぁ、あそこのおうちじゃないの」
「一一九、かけた?」
「かけた、かけた。もう、さっき」
「乾燥してるからねえ、この時期は」

誰かが言った。ほかの誰かが、うなずいた。

「ねえ、燃えてるの?」
「見なくていいから」

子どもと母親の声が、小さく聞こえた。二階の窓のどこかで、誰かがスマートフォンを掲げているのが、光の反射でわかった。

澪は、道の端に立った。素足にサンダルで、アスファルトの冷たさが、足の裏に食い込んできた。息が白い。スウェットの背中が、髪の水気でじわじわ冷えていく。

ポケットの財布と、右手のクリアファイルを、澪は意味もなく持ち直した。

「あんた、髪」

声をかけられて振り向くと、年配の女性が立っていた。ニット帽をかぶっている。顔だけが、ひどく落ち着いていた。

「濡れてるよ。風邪ひくよ」
「あ、はい」
「お風呂、入ってたの」
「はい」
「そりゃ、びっくりしたねえ」

女性はそれだけ言って、また火の方を見た。澪は、うなずいた。うなずくところが、それしかなかった。

消防車が到着した夜の住宅街

そのうち、サイレンが遠くから膨らんできた。

赤い光が、住宅街の壁を舐めるように回り始める。消防車が、路地の入口に頭を突っ込むようにして止まった。ドアが開いて、銀色の服の人たちが、ほとんど走らずに降りてくる。走らないのに、速い。ホースが道路に広がって、水が通ると、ゆっくり膨らんだ。

近所の人たちが、少しずつ後ろに下がった。誰も何も言わなくなった。赤色灯が回るたびに、みんなの顔が赤くなって、消えて、赤くなった。

隣の家の門の前に、パイプ椅子が一脚置かれた。誰かが持ってきたのだろう。そこに、灰色のカーディガンを羽織った小柄な人が、座らされていた。

あの人だ、と澪は思った。

顔を、こんなに近くで見るのは初めてだった。七十は超えているだろう。白髪の頭で、ビニール袋に入れて持ってきたらしい眼鏡を、しきりに触っている。誰かが、紙コップを渡した。その人は、両手で受け取って、しばらく持ったままだった。飲むでもなく、自分の家の窓を、テレビでも見るように眺めている。紙コップから、細い湯気が上がっていた。

そのうち、その人がこちらを見た。

澪は、なぜか、会釈をした。

その人も、小さく会釈を返した。それから、また窓のほうを向いた。

それだけだった。

窓の中の橙色は、思っていたより早く小さくなった。ホースの水が窓に叩きつけられると、炎は白い煙に変わって、それも次第に薄くなる。屋根の端から、黒く濁った水が一筋、樋を伝って落ちていた。

澪は、ずっと自分の右手を見ていた。髪はまだ濡れているのに、クリアファイルを持つ指のほうは、すっかり乾いていた。

消防隊員に言われた「もう大丈夫です」

「お怪我はないですか」

銀色の服の男性が、目の前に立っていた。三十代くらいで、頬にすすがついている。

「はい」
「お隣さんですよね。火はもう、ほとんど消えてます。こちらへの延焼もありません」
「あ、ありがとうございます」
「もう大丈夫ですので、お部屋にお戻りください」

隊員はそう言って、軽く頭を下げると、次の人のところへ歩いていった。

大丈夫、と言われた。

澪は、何か聞こうとした気がした。何を聞けばいいのかは、わからなかった。口を少し開けて、閉じた。そういう間に、隊員はもう、向かいの家の男性と話している。

腕時計を見た。十時四十七分。針の位置を、二度確認した。

明日、受付は九時。

人だかりは、ほどけるように散っていった。犬を連れた女性が、犬に何か話しかけながら帰っていく。母親の腰に張りついていた子どもは、眠そうに目を擦っていた。ニット帽の女性は、去り際に澪のほうを見て、「ちゃんと乾かしなよ」と言った。

澪は「はい」と言った。

パイプ椅子の人は、まだそこに座っていた。誰かが、その肩にブランケットをかけた。

部屋のドアを開けると、玄関には、外の匂いと、それより少し薄まった別の匂いが混ざっていた。天井の警報器は、もう鳴っていなかった。白いランプが一つ、規則正しく瞬いていた。

第五章 眠れない夜|試験前夜に寝れないと思ったのに

部屋に戻って、まず窓を開けた。冷たい風が入ってきて、匂いが動いた。すぐに閉めた。閉めた窓の内側に、匂いの残りが座っているような気がした。

ドライヤーを出して、髪を乾かした。風の音の向こうから、隣の家のほうで水を撒く音と、人の低い話し声が聞こえていた。

十一時二十分。

澪は、ローテーブルの前に座り直して、参考書を開いた。付箋の赤いところを、読んだ。読んだはずだった。読み終えて顔を上げたとき、何が書いてあったのか、一行も残っていなかった。

もう一度、同じページを開いた。

「契約の成立要件」

三つ目は、何だっけ。

参考書を閉じて、代わりにスマートフォンを手に取った。麻里のメッセージに、既読がついていた。返信はなかった。それでいいと思った。

歯を磨いて、電気を消して、布団に入った。

天井の警報器の白いランプだけが、暗い中で、規則正しく点いたり消えたりしていた。

試験前夜、「寝れない」と思ったのに

寝れないな、と澪は思った。

こんなことがあって、明日は試験で、頭の中はまだ煙の匂いがしていて、寝れるはずがない。きっと朝まで、天井を見て過ごすことになる。そのことを、澪はほとんど確信していた。明日、会場の椅子に座って、意識が朦朧として、名前を書くだけで終わる。それは、それで、仕方がない。

隣の家の水の音が、少しずつ遠くなっていく。

ランプが、点いて、消えて、点いて。

三回目に点いたのを見たところで、澪の記憶は、途切れている。

試験当日の朝、驚くほどよく眠れていた

次に目を開けたとき、部屋は薄青かった。

カーテンの隙間から、朝の光が細く入り込んでいる。枕元で、スマートフォンが振動していた。目覚ましだ。六時十二分。

澪は、天井を見た。

警報器のランプが、点いている。

寝ていた。

体を起こすと、頭が驚くほど軽かった。首の後ろのこわばりが、どこかへ行っている。喉が少し乾いていて、腹が減っていた。夢を見た覚えもない。前の晩にあれほど確信していたことは、どこにも残っていなかった。

体は、こういうことに関して、あまり空気を読まない。

澪は、布団の上であぐらをかいて、しばらくぼんやりした。それから、昨日の夜のことを、少しずつ思い出した。警報器。湯気。赤い光。銀色の服。ニット帽の女性の声。

そして、玄関の靴箱の上に、受験票の入ったクリアファイルが置いてあるのに、気づいた。

布団から出て、顔を洗った。鏡の中の髪は、右側だけ跳ねていた。直さなかった。玄関へ歩いていったのは、靴を履くためではなく、そこにクリアファイルがあるからだった。

第六章 逃げた日|試験当日に会場へ行けなかった過去

四年前のことも、澪は、玄関に座ったまま思い出していた。

あの日も、日曜日だった。

別の資格の試験だった。今回とは違う、もっと小さな検定で、受験料は九千円。会社に勧められたわけではない。自分で申し込んだ。転職して一年目で、何か足しになるものが欲しかった。

試験当日に、電車に乗れなかった朝

朝は、ちゃんと起きた。ちゃんと家を出た。

駅のホームは、日曜の朝らしく空いていた。青いベンチと、自動販売機と、屋根の下に溜まった冷たい空気。澪は、先頭の乗車位置に立った。電光掲示板に「あと2分」と出ていた。

電車が入ってきた。

風が来て、髪が一瞬持ち上がる。ドアが開いた。中から降りる人が数人、澪の脇を通り過ぎていく。空いた車内の、優先席の向こうに、座席が見えた。

乗る、と思っていた。

足は、動かなかった。

理由は、ない。なかった。緊張していたわけでも、体調が悪かったわけでもない。ただ、ドアが開いていて、そこに一歩踏み出すだけのことが、床に縫いつけられたみたいにできなかった。

ドアが閉まる音がした。空気の抜けるような、短い音だった。

電車は行ってしまった。

次の電車は十分後だった。それでも、間に合う時間だった。澪はベンチに座って、自動販売機で缶コーヒーを買った。缶は熱くて、両手で持たないといけなかった。

十分後の電車も、見送った。

そのときには、もう、間に合う電車ではなくなっていた。

九時二十分を過ぎて、受付が締め切られた頃、澪はまだホームにいた。缶は空だった。スマートフォンには、母からの不在着信が入っていた。折り返さなかった。

麻里から、LINEがきた。

『今日だよね。がんばってね』

短い文だった。澪はしばらく画面を見て、「うん」とだけ返した。

試験に行かなかった夜、友人が持ってきた唐揚げ

その夜、麻里が部屋に来た。

コンビニの袋をぶら下げて玄関に立った麻里は、澪の顔を見て、少しだけ目を細めた。何も聞かなかった。

「唐揚げ、買ってきた」
「……ありがと」
「レモンかけるタイプ?」
「なんでもいい」

ローテーブルに、袋から出した唐揚げと、缶ビールと、割り箸が並んだ。麻里は、レモンを勝手に絞った。

しばらく、二人とも黙って食べていた。

「今日、行かなかった」

澪がそう言ったのは、唐揚げが半分ほど減った頃だった。

「そっか」

麻里は、ビールを一口飲んだ。

「うん」
「無理しないでね」

それだけだった。

翌日、会社で「どうだった」と聞かれて、澪は「落ちたかも」と笑った。誰も、それ以上は聞かなかった。九千円は、そのまま、どこかへ消えた。

もったいない、とは、あのときも思っていた。思っていたのに、その言葉は、足の裏までは届かなかった。

玄関の段差で、澪は自分の足元を見た。スニーカーの中に、足はまだ入っていない。七時二十二分。

九時に、受付。電車で四十分。

第七章 試験会場|受験料を理由に資格試験を受けに行く

七時二十六分、澪は立ち上がった。

立ち上がる理由は、格別なかった。決意のようなものは、どこにも見当たらなかった。ただ、段差に座って四十分になる尻が、痛くなっただけかもしれない。

「一万二千円」

もう一度、声に出した。

それから、スニーカーに足を入れた。紐を結んで、鍵を持って、ドアを開ける。外の匂いは、朝より少し薄くなっていた。隣の家の前を、澪は見ないで通り過ぎた。見ないつもりだったのに、通り過ぎるとき、目の端でブルーシートの青が動いた。

駅までは、歩いて十二分。日曜の朝の住宅街は、静かだった。どこかの家から、洗濯機の回る音がした。

ホームには、数人しかいなかった。先頭の乗車位置に立つ。電光掲示板には「あと3分」。

試験会場へ向かう電車のドアが開いた

電車が入ってきた。

風が来て、髪が持ち上がる。ドアが開いた。中から降りてくる人が、数人。空いた車内に、座席が並んでいる。

四年前とは違う駅の、違うホームだった。それでも、ドアが開くと、同じ景色だった。

澪は、足元を見た。ホームの黄色い線と、スニーカーの爪先。

一万二千円、と頭の中で言った。それは、四年前の九千円と同じ手ざわりで、たいして頼りにならなかった。

それでも、足は前に出た。

理由は、澪にもわからない。ただ、右足が出て、左足がそれを追った。ドアの溝を跨ぐとき、少しだけ躓いた。

背後で、空気の抜ける音がして、ドアが閉まった。

澪は、閉まったドアの内側に立っていた。窓の外で、ホームがゆっくり後ろへ流れ始める。

座席に座ろうとして、自分の手がまだクリアファイルを握りしめているのに気づいた。指が白くなっている。ゆっくり、力を抜いた。

会場の専門学校には、八時十分に着いた。早すぎた。校舎の前の自動販売機で、澪は缶コーヒーを買った。熱くて、両手で持たないといけなかった。飲まずに、しばらく握っていた。

九時が近づくと、案内の紙を持った人たちが、同じ方向に歩いてきた。スーツの人。大学生風の人。年配の男性は、リュックにお守りをぶら下げている。誰も喋らなかった。

三階の教室の前で、受付の女性が受験票を確認した。

「岸本澪さん、こちらの席です」

窓際の、後ろから二番目だった。机は木目の合板で、誰かが昔彫った小さな落書きが、角に残っている。

隣の席では、二十代半ばくらいの男が、眠そうにあくびを噛み殺していた。目の下が薄く黒い。澪は、その人の寝不足の理由を想像しようとして、やめた。

九時三十分。試験官が、問題用紙を配った。紙がめくれる音、鉛筆が机に当たる音、誰かの咳払い。教室の時計は、秒針が少し大きな音を立てていた。

試験開始、意外と簡単ではなかった問題

「それでは、始めてください」

一問目は、契約の成立要件についてだった。

三つ目は、何だっけ。

昨夜の湯船で詰まったままの場所だった。澪は問題文を二回読んで、選択肢を眺めた。四つのうち、二つは明らかに違う。残る二つは、どちらもそれらしい。

千秋の「意外と簡単だったよ」が、頭を通り過ぎていった。

意外と、ではなかった。

三問目で、過去問に似た問題が出た。少しほっとして、五問目で、見たことのない言葉が出た。マークシートの丸を塗る鉛筆の音が、教室のあちこちから、規則正しく聞こえてくる。

眠気は、来なかった。

代わりに、腹が鳴った。八十分の試験の、五十分を過ぎたあたりで。静かな教室の中で、隣の男が、肩をほんの少し揺らした。澪は、知らない顔をした。

「そこまで。筆記用具を置いてください」

鉛筆が、いっせいに机に転がる音がした。誰かが、深く息を吐いた。

試験のあと、唐揚げ弁当と友人の返信

外に出ると、十一月の昼の光が、目に痛いくらい明るかった。

駅の途中のコンビニで、唐揚げ弁当を買った。レジで温めますかと聞かれて、はい、と答えた。店を出て、歩きながら、スマートフォンを出した。

『受けた』

麻里に、それだけ送った。

返信は、すぐに来た。

『えらい。唐揚げ食べな』

澪は、手の中の弁当を見た。袋の中で、まだ温かかった。

『今、持ってる』

送ってから、澪は、道の真ん中で立ち止まって、少しだけ笑った。

第八章 次の資格|合格したのに次のノルマが来た

結果が出たのは、二週間後の木曜日だった。

ホームページの合否照会は、受験番号と生年月日を入れて、「検索」を押す。昼休み、会社の休憩スペースの隅で、澪は麻婆豆腐弁当のフタを開けたまま、それを開いた。

『合格』

黒い小さな文字だった。祝福の画像も、紙吹雪もなかった。その二文字の下に、受験番号がもう一度書かれているだけだった。

澪は、その画面を五秒くらい見た。

それから、弁当を一口食べた。味は、いつも通りだった。

合格の報告と、課長の「次の資格」

午後、課長の席へ行った。

宮下課長は、パソコンから目を上げて、眼鏡を少しずらした。

「あの、資格の件ですが。合格しました」
「おお」

課長の顔が、ほころんだ。

「お疲れさま。よかった、よかった。いや、助かるわ。これで部署の数字も、ひとつ楽になる」
「はい」
「ほんと、ありがとうね」

課長は、引き出しから付箋を一枚引き抜いて、何かを書き始めた。

「あ、そうだ」

ペンが止まった。

「次の、これなんだけどね。来期のやつ。いや、強制じゃないんだけど。あくまでお願いで」

差し出された付箋には、別の資格の名前が書いてあった。上のほうに、太めの字で「二級→一級」とある。

澪は、付箋を受け取った。

「……はい」
「ごめんね。いつも」

課長は、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。それが、この人のいいところだった。

席へ戻る途中、給湯室の前で、千秋とすれ違った。

「合格したって、聞いたよ。おめでとう」
「ありがとう」
「ね、意外と簡単だったでしょ」
「……意外と、簡単では、なかった」
「そう?」

千秋は、首をかしげて、紙コップにお湯を注いだ。

「ま、次の一級は、範囲がえぐいけどね」
「聞いてない」
「今言った」

湯気の向こうで、千秋は、悪気のない顔で笑っていた。澪は、付箋を持ったまま、少しだけ笑ってしまった。

火事のあとの隣の家と、火災警報器のテスト

その日は、定時で会社を出た。

十二月に入って、日が短くなっていた。住宅街に着く頃には、空はもう群青色で、街灯が点き始めていた。

隣の家の前で、澪は、歩く速さを少しだけ落とした。

外壁の黒い部分には、青いシートがかけられていた。風で、端がぱたぱたと鳴っている。門の前に、白い看板が立っていた。『工事のお知らせ』。近隣の方へ、ご迷惑をおかけします、と書いてある。工事の日程が小さな表になっていて、その一番下の欄は、まだ空白だった。

窓には、明かりがなかった。

焦げた匂いは、もうなかった。代わりに、濡れた木と、埃を混ぜたような、湿った匂いが、薄く漂っていた。

澪は、それを吸い込んで、また歩き出した。

部屋に入って電気を点けると、ローテーブルの上に、朝のまま置いてあったマグカップが見えた。参考書は、部屋の隅の棚に、背を揃えて立てかけてある。まだ、売っていない。

スマートフォンを取り出して、麻里に送った。

『合格した』

すぐに既読がついた。

『えらい!』
『次は一級だって。課長が』
『またやるの?』
『受験料、また一万二千円』
『じゃあ、受けるしかないね』
『そういうこと』

澪は、スマートフォンをテーブルに置いた。

椅子を引きずってきて、ベッドの脇の壁際に置いた。上に乗って、天井を見上げる。警報器の白いランプが、規則正しく点いて、消えて、点いていた。

半年前に、ここに乗ってボタンを長押しした。あのときは、電池が切れたのだと思っていた。

人差し指で、ボタンを押す。

ピッ、と短い音がした。

『警報器は、正常です』

機械の、平坦な女の声だった。

澪は、椅子の上に立ったまま、しばらく天井を見ていた。

「まじ最悪」

声は、狭い部屋の壁に当たって、すぐに消えた。二週間前より、ほんの少しだけ、高かった。

椅子から降りて、やかんに水を入れた。ローテーブルの上で、付箋が蛍光灯の光を受けて、端を少し反り返らせていた。

やかんが鳴るまで、澪は、その付箋を、ずっと見ていた。

この物語は実体験をもとにしたフィクションです。登場する人物・団体・資格名などは、すべて架空のものです。

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