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短編小説『晴れてよかったね』|止まらないウォシュレットと台風前夜のヒューマンドラマ

2026年10月24日土曜日

カラオケ くすっと笑える ショートストーリー ヒューマンドラマ フィクション 実話をもとにしたフィクション 短編小説

t f B! P L

短編小説『晴れてよかったね』
止まらないウォシュレットと台風前夜のヒューマンドラマ

ヒューマンドラマ/全7章/読了目安:約20分

台風が近づく金曜の夜。カラオケ店のトイレの個室で、ウォシュレットが止まらなくなった。叫んでも誰も来ない。スマホは部屋に置いてきた。53歳の課長は、ここからどうやって出るのか。

あらすじと登場人物|台風前夜の短編ヒューマンドラマ

システム障害の対応に追われる都内の公的機関の課長・大地は、台風30号の進路を気にしながら、同僚とカラオケに立ち寄る。そこで起きたのは、ウォシュレットのストップボタンが効かないという、小さくて、誰にも言えない大事件だった。くすっと笑えて、読み終えると肩の力が抜ける物語です。

登場人物

大地(53歳)
都内の公的機関のシステム課長。心配性で、天気予報を何度も見てしまう。
真壁
大地と同じ立場の課長。報告がうまく、仕事ができる。
藤野
翌日のバーベキューで大地に声をかける、同年代の女性。

第一章 停止

午後五時を過ぎても、サイトは戻らなかった。

大地はモニターに映る灰色の画面を、もう何度見たのか数えていなかった。「ただいまメンテナンス中です」。公開用のウェブサイトを動かしているPHPに脆弱性が見つかったのは、おとといの朝だった。修正の手順が固まるまでサイトごと止める。昨日の課長会議でそう決まり、承認欄に印を押したのは大地自身だ。止めるのは簡単だった。印を一つ押せば済んだ。戻すほうは、そうはいかない。

「課長、問い合わせの電話が、また続いています」
若手の職員が、受話器を手で押さえたまま振り向いた。
「内容は」
「見られない、の一点です。今日は高齢の方が多くて」
「回答文は貼ってあるな。最後に電話番号を入れて」
「入れてあります」
「なら、それを読んでもらうしかない」

答えながら、大地は左手にスマートフォンを持っていた。親指が開いているのは、仕事とは関係のない画面だった。天気予報のアプリだ。

台風30号。

赤い渦が、日本の南の海にゆっくりと描かれている。進路予想の円は、昨日より少し小さくなった。それでも円のふちは、関東の端をかすめていた。

あしたは土曜日で、河川敷でバーベキューがある。誘ってくれたのは、十年ほど前に同じ部署にいた知人だった。友人の友人にまで声をかけたら三十人になった、と電話口で笑っていた。大地が顔を知っているのは、その知人だけだ。残りの二十九人は、名前も知らない。

行く、と返事をしたのは先週の火曜日だった。台風の名前がまだ天気図に載っていない頃で、あの返事は軽かった。

「大地さん、また見てる」
隣の島から、真壁が顔を出した。大地と同じ課長で、システム運用の課を預かっている。年は四つ下だ。五分前までベンダーと電話をしていたのに、手にはもう一枚の紙があった。
「経過報告、まとめました。時系列で、原因、影響範囲、暫定対応、今後の見通し。部長にはこれを先に回します」
「早いな」
「電話しながら書いたんで、雑ですけど」

雑ではなかった。A4一枚に、必要なことが必要な順番で並んでいた。大地が三十分かけても、こうは書けない。大地は書くとき、つい経緯から書いてしまう。真壁はいつも、結論から書く。

「で、台風ですか」
「いや」
「バーベキューでしょう。顔に書いてありますよ」
「書いてない」
「書いてありますって」

真壁は笑って、自分の席に戻っていった。

大地はスマートフォンを裏返して机に置いた。三秒数えて、表に返した。円は、さっきと同じ場所にあった。

六時半、ベンダーから連絡が入った。修正版の適用は今夜から始め、結果は朝のメールで一斉に知らせる、という。作業の間、役所側ですることはもうなかった。

「今夜は帰れそうですね」
真壁が鞄を肩にかけながら言った。
「二日ぶりに、家の布団で寝られます」
「そうだな」
「その前に、一回、声を出して帰りませんか。ここ二日、電話口でしか喋ってないんで」

大地は、画面の端にある台風の円を見た。家に帰っても、同じ円を見るだけだ。

「一時間だけな」
「一時間だけです」

話を聞きつけて、同じ障害対応に当たっていた課長が三人、あとから加わった。

午後六時四十分の予報。台風30号、あす夕方にかけて関東に接近。進路は、なお不確定。

第二章 隣室の歌声

カラオケ店は、駅から歩いて三分のビルの八階にあった。

案内された部屋は、五人が入ると肩が触れる広さだった。真壁のほかに、課長が三人。みな、ネクタイを緩めるより先に、ドリンクの注文を受話器に押し込んでいる。ウーロン茶、ウーロン茶、生ビール、ウーロン茶。大地はウーロン茶にした。あしたの朝にメールを読む頭は、きれいにしておきたかった。

最初の曲が始まるまでの間、誰も何も言わなかった。二日間、同じ画面を見てきた人間の顔は、よく似ていた。真壁だけが、リモコンを両手で持って、楽しそうに曲名を探していた。

「大地さんも、一曲いきましょう」
「歌えないよ」
「歌えなくていいんですよ。声を出すだけで」

大地は、古い曲を一曲だけ歌った。昔、車の中でよくかけていた曲だ。二番の途中で、音程がどこかへ行った。誰も気にしなかった。歌い終えると、三人の課長が拍手をした。真壁がいちばん大きく手を叩いて、「いい声出てるじゃないですか」と言った。

それから大地は、ウーロン茶を二杯空けた。

マイクが誰かの手に渡るたび、大地はスマートフォンを開いた。天気のアプリは、一曲に一回ほどの間隔で開かれていた。台風の円が、少しずつ東にずれているように見えた。見えるだけかもしれない。画面を閉じて、また開く。

「大地さん、予報は見るたびに変わるもんじゃないですよ」
「変わるときは変わる」
「三十分じゃ変わりませんって」

真壁の隣で、別の課長がマイクを持ったまま笑った。

九時ちょうどに、予報が更新された。進路、やや東寄りに修正。ただし、あす午前は雨の可能性が残る。

大地は、その一行を二回読んだ。「可能性が残る」。残る、という言い方が気に入らなかった。

「ちょっと、失礼」
スマートフォンをテーブルの上に伏せて、立ち上がった。ジャケットは壁のハンガーに掛けたままだ。いつもなら、ポケットの重さが体にくっついてくる。今夜は、何もついてこなかった。ウーロン茶が効いてきたのだ。

部屋を出ると、廊下の空気がひやりとした。いくつもの扉の向こうから、それぞれ別の歌が漏れている。歌詞は壁に削られて、拍手と笑い声と、低音の拍子だけが残っていた。

トイレは、廊下の突き当たりにあった。

第三章 止まらない

トイレには、誰もいなかった。

洗面台の蛇口から、水が一滴ずつ落ちていた。換気扇が低く回っている。個室は二つ。大地は奥の個室を選んだ。理由はない。いつも奥を選ぶ。

鍵をかけて、用を足した。

便座の側面に、操作パネルがある。大地は「おしり」のボタンを押した。ノズルが伸びる小さな音がして、水が出た。ここまでは、いつもと同じだった。

二十秒ほどして、ストップのボタンを押した。

水は、止まらなかった。

もう一度押した。指に力を入れて、押し込んだまま、一、二、三と数えて離した。水は出続けている。ノズルは、同じところを同じ強さで洗い続けた。

大地はボタンを叩いた。揺らした。爪を立てて、パネルのふちを探った。ねじ込むように、親指の腹で押した。どれも同じだった。パネルは押された分だけ沈み、戻ってきて、それだけだった。

「すみません」
声を出した。個室の天井に当たって、声が戻ってきた。
「誰か、いませんか」

換気扇の音しかしない。廊下の向こうで、拍手が一瞬だけ起きた。誰かが、サビを歌い終えたのだ。

もう一度、さっきより大きな声で呼んだ。
「すみません。ちょっと、誰か」

返事はなかった。トイレに店員を呼ぶボタンはなかった。トイレットペーパーのホルダーと、ブラシと、壁の黄ばんだ注意書きがあるだけだ。

スマートフォンのことを思い出した。部屋のテーブルの上に、伏せてある。三メートル先でも三十メートル先でも、同じことだった。今ここにないものは、ない。

腕時計は、していなかった。時間はいつもスマートフォンで見ていた。個室の中には、時計になるものが何一つなかった。水の音だけが、時間の代わりに続いていた。

大地は数えた。一、二、三。百まで数えて、数えるのをやめた。百まで数えるのにかかった時間が、何分なのか分からない、と気づいたからだ。

水が、便器の中に落ち続けている。座っている限り、水は便器の中に落ちるだけだ。それだけが救いだった。

大地は、深く息を吸った。吐いた。そうして、頭の中で文章を書き始めた。

事象。ウォシュレットのストップボタンを押下するも、洗浄が停止しない。
発生時刻。不明。
影響範囲。現時点では、便座およびその周辺。水の飛散なし。
原因。不明。ボタンの固着、または制御基板の不具合と推定。
暫定対応。

そこで、頭の中の文章が止まった。真壁なら、ここに三行で何かを書く。大地には、一行も出てこなかった。

二日前の朝、大地は承認欄に印を押した。止めよう、という判断は、一秒で済んだ。それがこうなるとは思わなかった。あのときは、止めるものと動かすものが、はっきり分かれていた。今は、止めたいものが動いていて、動かしたいものがない。

足元に、スラックスを下ろしたままだった。床に触れさせるわけにはいかない。大地は、スラックスを膝の上でたたんで持った。五十三歳の課長が、カラオケ店のトイレの個室で、スラックスを膝に抱えたまま、天井を見ていた。

額に、汗が出てきた。背中のワイシャツが、背もたれのタンクに貼りついた。

パネルのボタンを、もう一度、端から読んだ。「おしり」「ビデ」「乾燥」「脱臭」「ノズルそうじ」。一つずつ、文字を目で追った。「ノズルそうじ」のところで、目が止まった。

押した。ノズルが引っ込み、別の水がノズルを洗い、またノズルが伸びた。水は、止まらなかった。それでもノズルは清潔になったのだろう、と大地は思った。それで何が変わったわけでもない。

壁の向こうで、誰かが笑った。大地の部屋の隣の、さらに隣の部屋の、さらに隣の部屋の笑い声だった。

台風の円を思った。あしたの夕方まで、関東の端をかすめている、赤い円。止まれと言って止まるものではない。止められるのは、あのボタンだけのはずだった。

思考を止めるな。

そう思ったのは、仕事で何度も使ってきた言葉だった。部下には言わない。自分に言う。止まったら、サイトと同じになる。

大地はパネルの上に、もう一度、指を置いた。

第四章 ビデ

十分か、二十分か。大地は、時間を数えるのをやめていた。

パネルの上で、指がさまよった。五十三年間、一度も押したことのないボタンが、そこにあった。「ビデ」。押す理由がなかった。理由がなかったので、そのボタンを正面から見たこともなかった。

押した。

ノズルの先が、ほんの少し角度を変えた。水が一瞬細くなり、止まった。

静けさが来た。換気扇の音と、水滴の音だけになった。

大地は、長く息を吐いた。止まった。止まったのだ。

腰を浮かせた。

その瞬間、ノズルがまた伸びた。水が出た。さっきとは違う角度で、便器のふちを越え、タイルの床に向かって飛んでいく。

大地は慌てて、座り直した。水は便器の中に戻った。立てば床へ、座れば便器へ。そういう仕組みになってしまった。

浮かせかけた腰のまま、動けなくなった。スラックスは膝の上だ。足は半分しゃがんだ形で、床には水が飛んだ跡が一本、細く光っていた。

もう一度、ビデのボタンを押した。水は止まらなかった。二度、三度、押した。ビデはもう、効かなかった。

大地は、座ったまま天井を見た。

この床が濡れれば、そこに水たまりができる。水たまりは、個室の下の隙間から廊下に出る。廊下に出た水は、八階のあちこちの個室から出てくる客の靴に付く。店員が来る。誰が、どこで、何をしたのか。報告書には、自分の名前が載る。

その連想の速さに、大地は自分で呆れた。五十三歳の課長が、タイルの上の水たまりから報告書の宛名までを、三秒で走り切った。サイトの障害対応と、頭の動かし方が同じだった。

息を吸って、吐いた。

立ち上がれない。叫んでも誰も来ない。出ていくことも、できない。

座ったまま、できることを探した。トイレットペーパーで水を受ける。三重巻きにしても、床は広すぎた。ブラシで水の向きを変える。ブラシの柄は短すぎた。足で、ノズルの向きを蹴る。それは駄目だ。ノズルが折れたら、水の向きがもっと変わる。

額から汗が落ちて、膝の上のスラックスに染みを作った。

壁の向こうで、笑い声が起きた。今度は、すぐ隣の部屋だった。誰かが、同じ歌をもう一度入れようとしている。歌詞は聞こえない。拍子だけが、薄い壁を抜けてきた。

時間が、たしかに過ぎていた。真壁は、そろそろ気づくだろうか。大地さん遅いな、と思うだろうか。思ったとして、トイレまで見に来るだろうか。来ないだろう、と大地は思った。あの男は、人の用足しを見に来るような男ではない。そういうところが、大地は嫌いではなかった。

水が出ていない便器の中を、ただ見ていた。

大地は、体の向きを少し変えた。何かを探したわけではなかった。ただ、同じ姿勢のままでいると、頭の中の文章が、また止まってしまいそうだった。

右の肩を後ろに回したとき、視界の端に、白いものが映った。

便座の後ろ、タンクの横から、細い白いコードが一本、壁に向かって伸びていた。

第五章 天から伸びた糸

コードは、便座の後ろから壁のコンセントまで、一本の線で渡っていた。

大地は体を捻った。右の肩を後ろに回し、右手を伸ばした。指の先が、コードの途中に触れた。そこから壁のプラグまで、まだ掌ひとつぶん足りない。

腰をずらすわけにはいかなかった。座る位置が変われば、水の落ちる場所も変わる。ほんの数センチ、尻を動かした。水が便器のふちに当たって、跳ねた。慌てて戻した。その数センチで、指が届くかどうかが決まる。

もう一度、体を捻った。肩の関節が鳴った。五十三歳の肩は、そこまで回るようにできていなかった。

地獄の底に、細い糸が降りてくる話を、昔どこかで読んだ。上から来た糸を掴んで、登っていく。途中で糸は切れる。切れる結末まで思い出して、大地は一人で首を振った。切らせない。切れるほど、引かない。

指を伸ばした。人差し指と親指の先で、コードをつまんだ。つまんだ指を、手前にたぐった。コードが少し、手前に寄った。つまみ直した。もう一度、たぐった。

プラグの根元に、指が届いた。

引いた。

固かった。一度、引いたが抜けなかった。大地は息を止めて、肘を引き寄せ、もう一度、引いた。

カチ、という小さな音がして、プラグが壁から外れた。

水の音が、消えた。

換気扇の音だけが、残った。水滴が一滴落ちた。次の一滴は、落ちなかった。

大地は、動かなかった。

便座の上で、膝にスラックスを載せたまま、天井を見た。足元を見た。タイルの床に、一本、細い水の跡があった。それ以上、広がってはいなかった。スラックスは、濡れていなかった。ワイシャツの裾も、濡れていなかった。靴の中は乾いていた。

笑いたいのかどうか、自分でも分からなかった。肩が一度だけ、上下に揺れた。

立ち上がった。ノズルは動かなかった。パネルのどのボタンも、もう何も言わなかった。スラックスを上げて、ベルトを締めた。指の先が、かすかに震えていた。

プラグを持ったまま、壁のコンセントの前に立った。

差し込めば、元に戻る。元に戻ったウォシュレットは、また次の客を迎える。

次にこの個室の鍵を開けるのは、誰だろう。大地は、顔のない誰かを思った。上機嫌で、ネクタイを頭に巻いているような若い誰か。あるいは、歌い疲れた中年の誰か。その誰かが座って、「おしり」のボタンを押す。ストップが、効かない。

大地は、プラグを持った手を、そこで止めた。

店員に伝えれば、すむ話だった。ただ、伝えるには、何をしたのかを話さなければならない。何分いたのか。なぜ叫ばなかったのか。叫んだのだ。誰も来なかったのだ。そのことを、あの廊下の突き当たりで、制服を着た若い店員に、説明する。

プラグは、壁には戻さなかった。コードを、便座の裏にそっと落とした。コンセントは、むき出しのまま、壁に空いていた。

流すレバーを押して、個室の鍵を開けた。

第六章 遅かったな

洗面台の前に立って、大地は手を洗った。

蛇口をひねると、水が出た。石けんを泡立てて、指の間を洗い、流した。水の音は、さっきまでとは違って聞こえた。蛇口の根元を、右手で押さえた。水が止まった。

止まった水を、大地は、しばらく見ていた。

鏡の中で、ネクタイが曲がっていた。髪の分け目が、汗で乱れていた。ネクタイを直し、髪を手で撫でつけた。顔の色は、思ったほど悪くなかった。

廊下に出た。いくつもの扉の向こうから、さっきと同じ拍子が漏れていた。同じ廊下のはずだった。来たときより長く感じた。

部屋のドアの前で、大地は一度、立ち止まった。ドアの小さな窓から、真壁の横顔が見えた。マイクを持って、何かを喋っている。大地は、息を一つ吸ってから、ドアを開けた。

「あ、戻ってきた」
真壁がマイクを下ろした。
「遅かったですね。落ちたのかと思いましたよ」
「ちょっと混んでてな」
「八階のトイレって、混みます?」
「……混んでた」
「ふうん」

真壁は、それ以上聞かなかった。マイクを課長の一人に渡して、リモコンを手に取った。
「大地さん、次の曲、入れときましたよ。さっきの人と同じやつ」
「歌わないぞ」
「歌わなくていいです。入れただけです」

大地は、ソファに座った。テーブルの上のグラスに手を伸ばした。ウーロン茶の氷が、かすかな音を立てて鳴った。グラスを持つ手が、わずかに揺れていた。大地は、グラスを両手で持ち直した。

真壁は、画面を見ていた。そのあいだ、一度も大地のほうを見なかった。

スマートフォンは、伏せたまま、置いたときと同じ位置にあった。手に取って、裏返した。着信は一件もなかった。時刻は九時二十分。部屋を出てから、二十分が過ぎていた。

(二十分、と大地は思った。百まで数えたのは、あのうち、どのあたりだったのだろう。)

「一時間」の約束は、三十分延びた。解散は十時を回った。

ビルの外に出ると、夜の風が頬を打った。街路樹の葉が、一斉にひっくり返っていた。雲が、低いところを、速く流れていた。

「大地さん、あしたのバーベキュー、どうなりますかね」
改札の手前で、真壁が言った。
「晴れる、と思いたい」
「思いたい、ですか」
「見たら教える」

真壁は笑って、反対側のホームに歩いていった。背中が、人の流れに紛れた。大地は、その背中を、見えなくなるまで見ていた。

ホームのベンチに座って、スマートフォンを開いた。台風の円は、さっきよりさらに東へずれていた。円のふちは、もう関東を離れていた。ただし、あす午前は、にわか雨の可能性が残る、と書いてあった。

午後十時十分の予報。進路は東へ。あす午前、関東は、雨の可能性あり。

第七章 晴れてよかったね

朝の五時四十分に、枕元のスマートフォンが一度だけ震えた。

大地は目を開けて、画面を見た。メールだった。「【復旧のお知らせ】公開サイトは、本日午前五時三十分に復旧しました」。続けて、ベンダーの担当者の名前と、確認項目の一覧が並んでいた。大地は一行目だけ読んで、メールを閉じた。それから、天気のアプリを開いた。

台風30号は、地図の右端で、小さな渦になっていた。関東の予報は、一日、傘のマークがなかった。

カーテンの隙間から、白い光が差していた。大地は起き上がり、カーテンを開けた。

空は、どこまでも青かった。

しばらく、窓の前に立っていた。それから洗面所に行って、顔を洗った。蛇口の水は、ひねれば出て、閉めれば止まった。

河川敷には、十時に着いた。

土手を下りると、風にのって炭の匂いが来た。広い芝生の上に、タープが三つ張られ、折りたたみ式の長机が並んでいた。その向こうに、煙が何本も立っていた。人が、たくさんいた。三十人は、思ったよりも多く見えた。

「おお、来てくれたか」
誘ってくれた知人が、トングを持った手を振った。
「大地さん、こちら、みんな」

紹介されたが、名前は一つも頭に入らなかった。「よろしくお願いします」と言って、何度も頭を下げた。紙皿を渡され、ビールと麦茶のどちらにするか聞かれて、麦茶と答えた。それから大地は、クーラーボックスの横に立った。立つ場所が、そこしかなかったからだ。

皆、もう顔なじみのように喋っていた。実際は、ほとんどが今日初めて会った者同士のはずだった。それでも誰かが、誰かの冗談で笑っている。笑っている人の輪から、少しだけ離れたところに、大地は立っていた。

ポケットの中のスマートフォンを、取り出しかけて、やめた。

空は、まだ青かった。

「麦茶、足りてます?」
声をかけられて、大地は振り向いた。同じ年ごろの女性が、紙コップを二つ持って立っていた。藤野と名乗った。ピッチャーを提げた手に、軍手をはめている。
「足りています。ありがとうございます」
「すぐなくなっちゃうんですよね、麦茶」

藤野は、大地の紙コップに麦茶を注いだ。それから、自分のコップにも注いだ。そうして、二人で、同じ空を見上げた。

「晴れて、よかったですね」
藤野が言った。

大地は、少し迷ってから、答えた。
「ええ。昨日から、予報を何度も見てしまって」
「私もです」

藤野は、それだけ言った。理由は聞かなかった。大地も、聞かなかった。藤野は、網の上の鶏肉をトングで裏返した。肉は、ちょうどよい色に焼けていた。

大地は、何か言おうとして、やめた。言わなくていいことだった。藤野は、トングを持ったまま、少しだけ笑った。「見すぎですよね」と、小さな声で言った。「見すぎです」と、大地も言った。

煙が、風に流れて、二人の間を抜けていった。

大地は、ふと、あの廊下の突き当たりの個室を思い出した。今ごろ、あの個室の鍵を開けた誰かが、いるかもしれなかった。壁のコンセントの下に、プラグが落ちているのを、その誰かは、どう思うだろう。首をかしげて、戻して、また何も起きないかもしれない。起きても、抜いたのが誰かは、分からない。

それで、よかった。

「どうぞ」
藤野が、焼けた鶏肉を、大地の紙皿に載せた。
「ありがとうございます」

熱かった。ちょうどよい熱さだった。

大地は、紙皿を持ったまま、顔を上げた。河川敷の向こうまで、雲は一つもなかった。

ポケットの中のスマートフォンには、最後まで、触れなかった。

この短編小説について|実話をもとにしたフィクション

『晴れてよかったね』は、実際にあった「カラオケ店のウォシュレットが止まらなくなった」出来事をもとにした、フィクションの短編小説です。登場人物や職場は実在のものではありません。

テーマ:止められる水と、止められない空

台風の進路のように、自分では止められないものがあります。一方で、手を伸ばせば止められるものもあります。心配性の主人公が、狭い個室の中で「手の届くもの」だけに集中する数分間を描きました。

読後感

笑えて、少し肩の力が抜ける。そんな読後感を目指した、ヒューマンドラマの短編です。通勤中や寝る前の20分に、どうぞ。

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・店舗とは関係ありません。

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