『雨の名前を教えてくれた人』|世界一周の旅と恋を描く短編ヒューマンドラマ
東京の雨が34日続く日、口からこぼれたスペイン語が世界一周の旅の記憶を呼び戻す。中南米の雨宿りで出会ったチリ人の旅行者との、ほのかな恋と別れを描く約1万字の短編小説。
この短編小説について|世界一周の旅とスペイン語がつなぐ、雨のヒューマンドラマ
あらすじ
東京は、雨が34日も続いていた。フリーの翻訳者・久保田蓮は、バス停で無意識に「ジュビア」とつぶやく。雨の中米で、チリ人の旅行者カミラと笑い合いながら覚えた言葉だった。別れを言えないまま国境を越えた旅の記憶が、東京の雨の日に少しずつよみがえっていく。
登場人物
久保田蓮(29歳、フリーの翻訳者)/カミラ(チリ人の旅行者)/ロレンソ(コスタリカの傘売り)/ヤマさん(先輩バックパッカー)/小暮さん(スペイン語を習いはじめた東京の女性)
作品情報
ジャンル:短編小説・ヒューマンドラマ・恋愛(ほのか)・旅小説 / 全9章・約10,600字
第一章 東京の雨・三十四日目|スペイン語がこぼれるバス停
傘の骨が、片側だけ軋んでいた。
コンビニで買った六百円のビニール傘は、蓮の肩幅にほんの少し足りない。左の腿から下は、さっきから雨にさらされっぱなしだった。チノパンの裾は水を吸って黒ずみ、歩くたびに足首にまとわりついてくる。
バス停の屋根は、三人も立てばいっぱいになる。蓮は端に寄って傘を閉じ、柄の水滴を二度、地面に振った。
三十四日目だった。誰かが数えているわけではないのに、朝のニュースが画面の隅に「東京の連続降雨、三十四日目」と出していた。ここまで来ると、雨は天気というより家具に近い。窓の外にあって、動かなくて、もう誰も気にしない。
蓮はフリーランスの翻訳者で、仕事のほとんどは家でできる。それなのに、今朝は郵便局へ出す書類を、わざわざこの雨の中で済ませに出てきた。部屋の中で聞く雨音より、外で浴びる雨のほうが、まだ耐えられた。
バスはまだ来なかった。蓮はスマートフォンで翻訳案件の納期を確かめ、画面を消し、また点けた。何も変わっていなかった。屋根の縁から落ちる水が、細い線になって目の前を何本も流れていく。隣では、高校生がイヤホンをしたまま、濡れた前髪を指で直していた。向かいのクリーニング店のシャッターは、ひと月近く、開いているところを見ていない。
「ジュビア」
自分の声だと気づいたのは、言い終わってからだった。声というより、息に近かった。ここ数年、雨を見ると決まって出る。意味を考えるより先に、口が動いてしまう。
雨脚が急に強くなった。屋根を叩く音の質が変わり、道の向こうの信号が滲んだ。排水溝が追いつかず、車道の端に茶色い水が盛り上がっていく。
「……ジュビオーソ」
今度ははっきり、声になった。
「あら」
隣で誰かが言った。六十がらみの女性だった。ベージュのレインコートの腕に、ノートを抱えている。透明なビニール袋の中に、小さな辞書が入っているのが見えた。
「今の、スペイン語?」
蓮は一拍、遅れた。「いえ」
「いえ、じゃないでしょう。ジュ、なんとか」
「呪文です。雨が弱まりますように、っていう」
女性は笑わなかった。かわりに、ペンの蓋を口にくわえて、ノートを開いた。
「ごめんなさいね。カルチャーセンターで習ってるの。先生は雨のこと、リュビアって言うのよ。さっきのあなたのほうが、それらしかった」
「南の言い方なんです、たぶん。ブエノスアイレスのほうの」
答えてから、しまったと思った。聞かれてもいないことまで話している。女性は「ふうん」と言って、ノートの端に何かを書きつけた。
「それで、ジュビオーソは?」
「大雨のことです。たぶん」
「たぶんが多いのね」
「覚えたのが、ずいぶん前なので」
バスのライトが、雨の向こうで二つ揺れた。まだ遠い。蓮は傘の柄を握り直した。柄が濡れていて、少し滑った。
第二章 コスタリカの雨宿り|世界一周の旅で覚えたスペイン語
十二時を過ぎると、空の色が変わった。
九月の中米では、それが毎日のことだった。朝は嘘のように晴れる。山の稜線がくっきり見えて、洗濯物がよく乾いて、誰もが今日は降らないと思う。ところが正午を回るころ、東の空に灰色の塊が湧き、風が急に冷たくなり、乾いた道に最初の一粒が黒い点を打つ。そこから先は、あっという間だった。
蓮は傘を持っていなかった。日本から持ってきた折りたたみ傘は、最初のひと月でバスの網棚に置き忘れた。買い直せばよかったのに、買わなかった。ふた月も経つと、買わないことが小さな意地になっていた。
その日、蓮は町はずれの道を歩いていて降られた。走った。いちばん近い屋根に飛び込んだ。
道沿いの、トタン屋根の売店だった。軒先にプラスチックの椅子が三つ。赤い傘が、バケツに束になって刺さっている。
先客が、すでに四人いた。
肩で息をしながら、蓮は言った。
「……lluvia」
ジュビア、に近い音になった。ブエノスアイレスの語学学校で、一か月、毎朝言わされた音だった。
椅子に座っていた男が、顔を上げた。六十は過ぎているだろう。日焼けした顔に白い口ひげ。バケツの隣で、ゴミ袋のようなビニールを頭から被って笑っていた。
「¿Hablas español?」
「Un poco」
「ウン・ポコ、だとさ」男は周りを見回して、にやりとした。「聞いたか。それに、ジュビアときた。ずいぶん南の人みたいな言い方をするな、あんた」
「ブエノスアイレスで、少しだけ」
「ああ、あっちか。あっちはジュビア。ここはヤビアだ。で、今日は」
男は人差し指を空に向け、ぐるりと回した。ちょうどそのとき、雨が一段と強くなって、トタンが太鼓のように鳴った。
「ジュビオーソ」
「ジュ、ビ、オーソ」
蓮が真似ると、店の奥の女が吹き出した。通りの向こうから走り込んできた少年が、濡れた髪を振りながら、もう一度言った。
「ジュビオーソ!」
蓮の言い方が、そんなに可笑しかったのかどうかは、わからない。ただ、名前も知らない五人が、同じ雨の下で同じ言葉を口にしていた。それがなぜか可笑しくて、蓮も笑った。
男はロレンソと名乗った。傘を売っているくせに、自分は一本もさしていない。理由を聞くと、「貸したことがある」と言った。
「十本貸した。戻ってきたのは、ゼロ本だ」
赤い傘を一本、ひょいと差し出された。受け取ろうとすると、手を引っ込められた。
「五ドル」
「買えってことですか」
「買わないのか」
蓮は買わなかった。ロレンソは肩をすくめて、バケツの傘を一本ずつ数え直した。
雨は一時間ほどで上がった。蓮のチノパンの裾は泥水を吸って、足首に張りついていた。出ていくとき、ロレンソが背中に声をかけた。
「明日も降るぞ」
「何時に」
「十二時過ぎ。ここは、いつもそうだ」
蓮は振り返って、ジュビオーソ、と言った。ロレンソは今度はひとりで、声を上げて笑った。
翌日も、蓮は十二時前に同じ軒先にいた。ロレンソは、椅子を一つ空けていた。「ウン・ポコ」と呼ばれた。三日目には、その呼び名に「ジュビオーソ」が足された。四日目には、売店の女が、蓮の分のコーヒーを黙って出すようになった。代金は、受け取ってもらえなかった。かわりに、蓮は、軒先で言葉をひとつずつ持ち帰った。gota、しずく。perdido、迷った。ロレンソは、教えるたびに、必ず蓮に復唱させた。間違えると、全員が笑った。それが、不思議と、嫌ではなかった。
第三章 東京の軒先|「大雨」だと思っていた言葉の本当の意味
バスは来たが、ドアを開けただけで行ってしまった。立っている乗客で、いっぱいだった。電光表示は「次 十二分」に変わった。
蓮は傘を開かなかった。女性もレインコートのフードを下ろしたまま、バス停の屋根の下で、ノートの上にペンを置いていた。
「小暮です」と、女性は言った。「こぐれ。冬の、くれ。名前を聞かれる前に言っておくと、楽なのよ」
「久保田です」
「久保田さん。それで、誰に教わったの?」
「何を」
「ジュビオーソ」
蓮はスマートフォンを取り出して、見るものもない画面を見た。
「旅先の、通りすがりの人です」
「通りすがり」
「はい。ほんとうに」
「ふうん」
小暮さんはそれ以上聞かなかった。かわりに、ビニール袋から辞書を出して、ページをめくりはじめた。濡れた指先が、紙の端を灰色に染めた。
「娘がね、スペインの人と結婚したのよ。孫がもうすぐ三歳で、わたしに話しかけてくるんだけど、半分もわからないの。それで習いはじめたの。もう三か月。いまだに、ありがとうとお腹すいたしか言えない」
「十分じゃないですか」
「それは、お腹がすいてるときだけね」
小暮さんは、ノートの最初のページを蓮に見せた。大きく丸い字で、Hola、Gracias、Tengo hambre、と並んでいる。その下に、片仮名の名前が、鉛筆で何度も書かれていた。濃い字と薄い字が混ざっていた。
「発音は、まだだめなの。でも、書けば、見せられるでしょう」
小暮さんは笑って、辞書のある一点で指を止めた。
「あら。ジュビオーソ、ってこれかしら。lluvioso。……あらあら」
「どうしました」
「大雨、じゃないみたい。雨の多い、雨がちの、ですって。大雨は、こっち。アグアセロ」
蓮は、黙った。
屋根を叩く音が、ひときわ大きく聞こえた。道の向こうで、傘を差した人々が、同じ速さで同じ方向に歩いていく。
「……二年と四か月、ずっと、大雨のつもりで言ってました」
「それはそれで、ぴったりじゃない。今日みたいな日に」
「まあ、そうですね」
蓮は声を出して笑った。思っていたより大きな声になって、隣のサラリーマンが、ちらりとこちらを見た。笑いながら、蓮は考えていた。あのとき、ロレンソは空を指して言ったのだ。雨が強くなったタイミングで。だから、強い雨の言葉だと思った。
誰も、直さなかったのではなく。誰も、直す必要を感じなかったのだ。あの日、あの軒先では、雨は雨で、強いも弱いもなかった。
「お孫さんに、最初に教えたい言葉は?」と、蓮は聞いた。
小暮さんは、少し考えてから言った。「雨、かしら。いま、ちょうど降ってるし」
「それなら、いい言葉があります」
「ジュビオーソ?」
「それは、三歳には難しいです」
「あなたも、難しいのに使ってたじゃない」
「久保田さん、傘は?」
「あります。ここに」
「入る? わたしの、大きいのよ」
「大丈夫です。バス、来ますし」
蓮は閉じたままのビニール傘を、体の前で立てた。柄に、また水滴が一粒、落ちた。
第四章 宿の夜|バックパッカーが語る中南米「3C」の伝説
ヤマさんは、サンダルの紐を縫っていた。
宿のテラスの隅で、ライターで糸の端を焼いて、針穴に通して、小さく舌打ちをする。四十三歳。旅は四年目になる、と本人は言っていたが、本当は五年かもしれなかった。日焼けした腕の毛が、白く脱色されていた。
屋根のトタンを、夜の雨が叩いていた。昼ほどの勢いはなく、落ち着いた、長い雨音だった。
「傘を買わない理由、教えてやろうか」と、ヤマさんは言った。
「いえ、特に聞きたくは」
「傘がないと、軒先で暇になる。暇になると、人に話しかけられる。経験則だ」
「ロレンソさんも同じこと言ってました。売り物なのに」
「あのおやじは、傘を売る気がないんだよ」
「蓮は、なんで旅に出た」
「会社を辞めたので」
「辞めた理由は」
「営業が向いてなかったので」
「喋るのは得意そうだが」
「契約を取るのは、得意でした」蓮は缶の縁を指でなぞった。「取ったあとに残る人間関係が、苦手で」
ヤマさんは「へえ」と言っただけで、針を布に刺した。深追いしないのが、この人のいいところだった。
ヤマさんは縫い終えたサンダルを、テーブルの上に置いた。そして、思い出したように言った。
「蓮、三つのCって知ってるか」
「いえ」
「中南米の、美女の国。旅人の間では、伝説みたいな話だ。チリ、コロンビア、コスタリカ」
「全部、Cで始まるだけでは」
「それが伝説の強みだ。反論しにくい」
蓮はビールを一口飲んだ。ぬるくなっていた。「で、ヤマさんの現地調査では」
「三か国とも、通りすがりで終わった」
ヤマさんはあっさり言って、サンダルの紐を引っ張って強度を確かめた。
「コロンビアではな、バスターミナルで道を聞いたら、乗り場まで連れていってくれた子がいた。礼を言って、名前を聞く前にバスが出た。三か国で、同じことが三回ある」
「三回も、名前を聞き損ねたんですか」
「聞き損ねたんじゃない。聞かなかったんだ」
ヤマさんは紐から手を離した。「伝説ってのはな、確かめに行かなかったやつが語るもんだ。俺も、語るほうの人間だ」
笑ってから、蓮は少し間を置いた。
「確かめに行った人は、語らないんですか」
「さあな。そういう人は、そもそも宿のテラスにいないだろ」
ヤマさんは明日の朝、北へ向かうと言っていた。別れの挨拶も、いつもそうだった。簡単で、ほとんど冗談のようで、背負った荷物の音のほうが大きい。
その夜の終わり際、ヤマさんは空き瓶を二本、まとめて持ち上げながら、ついでのように言った。
「別れ損ねるとな、あとで降るぞ」
「何が」
「雨に決まってるだろ」
「ここは毎日降ってますけど」
「そういう意味じゃない」
ヤマさんは、それ以上説明しなかった。階段を降りる足音が、雨音に混ざって、聞こえなくなった。
第五章 雨宿りの恋|チリ人の旅行者と二人だけの合図
カミラが売店に駆け込んできたのは、蓮がロレンソの軒先に通いはじめて、十日目だった。
プラスチックの椅子には、すでに蓮が座っていた。ロレンソは傘のバケツの隣で、ゴミ袋を頭から被っていた。そこに、リュックを胸に抱えた女が、全身から水を滴らせて飛び込んできた。濡れて重くなった黒髪が、頬に貼りついていた。
「うわ、ひどい」と、彼女はスペイン語で言った。「毎日この時間、こうなの?」
「毎日だ」ロレンソが答えた。「ここは、いつもそうだ」
彼女は椅子に腰を下ろし、リュックのジッパーを開けて、中身の無事を確認した。ノートが一冊、ビニール袋に入って乾いていた。それを見て、ようやく大きく息を吐いた。
「ジュビオーソ」と、蓮は言った。
反射だった。口が先に動いた。
カミラが、顔を上げた。
「今の、なに」
「雨、だよ。大きな雨。……たぶん」
「たぶん?」
「ここの人たちに教わったんだ」
「あなた、ジュって言った」彼女は笑った。「その、ジュ。風邪をひいた猫みたい」
「南のほうで習ったんだ。ブエノスアイレスで」
「チリの南じゃなくて?」
「ごめん。アルゼンチン」
「それなら、仕方ない」と言って、彼女は、チリの言い方でゆっくり発音して見せた。ヤビオーソ。蓮は真似をして、やっぱりジュビオーソになった。カミラが笑い、ロレンソが笑い、店の奥から女が出てきて、「また同じ声が増えたよ」と言った。
カミラは、ヴァルパライソという港町の出身だと言った。以前は小学校で教えていたが、辞めた。理由は「疲れたから」とだけ言った。あとは聞かなかったし、蓮も聞かなかった。
丘の斜面に色とりどりの家が並ぶ町だそうだ。海から上がる霧が、朝になると坂道を白く塗りつぶす。「うちのほうは、雨が少ないの」と、カミラは言った。「だから、ここの昼の雨は、少しうれしい」
うれしい、と言ってから、彼女は自分で言い直した。「うるさいけど、うれしい」
その日から、昼の雨は二人のものになった。
十二時を回ると、蓮は軒先に着いた。十二時十分ごろ、カミラが走ってくる。最初の一粒が落ちるとき、二人は同時に言う。
「ジュビオーソ」
「ヤビオーソ」
発音が少しずつ違うのが、可笑しかった。ロレンソが数えた回数は、八回目から、なぜか数えなくなったらしい。
「お前たち、傘を買う気はあるのか」と、ロレンソは毎日聞いた。
「ない」
「No」
声が、同時に重なった。
ある日、雨は十五分で上がった。軒先の全員が、拍子抜けしたような顔で空を見上げた。カミラが「歩こう」と言い、二人は濡れた道を、川のほうへ歩いた。水たまりに、雲の切れ間の青が映っていた。カミラは露店でマンゴーを一つ買って、ナイフがないので爪で皮を剥き、半分を蓮に渡した。果汁が手首まで伝った。
「来週は、北に行く」と、カミラは言った。「ニカラグア」
「僕は、南」
「そう」
それだけだった。カミラはマンゴーの種を、川に向かって投げた。濁った水に、小さな音を立てて消えた。軒先に戻ると、ロレンソが傘の数を数えていた。数が合わない、と言って、最初から数え直していた。
ある日、カミラがノートを広げて、蓮に差し出した。「ここに、日本語で書いて」
蓮は、「雨」と書いた。「あめ」と、読み仮名もつけた。カミラは、一画ずつ指でなぞって、窓みたいだと言った。
「窓の中に、水が落ちてる」
「そう言われると、そう見える」
「あなた、本当のことを言いそうになると、冗談になる」
何の前触れもなく、カミラはそう言った。蓮は、手の中のペンを見た。
「宿でみんな言ってるの」と、カミラは続けた。「三つのCの話。チリは、一つ目なんでしょう」
「ヤマさんが、そう言ってた」
「それで、確かめたの?」
「サンプル数が足りなくて」
カミラは吹き出して、それから、ふっと真顔になって、「ほら」と言った。
蓮は返事を探して、雨を見た。軒先から落ちる水が、ずっと同じ場所に、同じ穴を作っていた。
第六章 東京の夜|送れなかったメッセージ
夜になっても、雨は止まなかった。
蓮の部屋は、駅から歩いて十分のところにある。玄関のドアの内側に、ビニール傘を広げて立てかけておいた。床に落ちた水の輪が、廊下まで広がっている。チノパンは、浴室のカーテンレールに吊るした。裾から、まだ水が滴っていた。
冷凍のうどんを温めて、立ったまま食べた。スマートフォンが震えて、元同僚の宮下からLINEが来た。「飲みに行かない? 最近どうしてる?」蓮は少し考えて、「雨で濡れ鼠。傘が小さすぎる」とだけ返し、笑っているキャラクターのスタンプを押した。既読がついて、宮下のほうからも似たスタンプが返ってきた。会話は、それで終わった。
パソコンの画面には、ホテルの案内文があった。スペイン語から日本語へ。報酬は一語あたりの安い単価で、納期は明後日。蓮は、淡々と訳していった。
Durante la temporada de días lluviosos, recomendamos llevar paraguas.
「雨の多い時期は、傘のご持参をおすすめします」
打ってから、指が止まった。lluviosos、の語尾を、蓮は目で追った。二年と四か月、大雨だと思っていた言葉が、画面の上で、ただの「雨の多い」に収まっていた。
蓮は、文を消さなかった。かわりに、パソコンの横のスマートフォンを手に取った。
メッセージアプリを開く。連絡先の一番下のほうに、「Camila」という名前があった。スクロールするまでもなく、トーク画面は一番新しいところで止まっている。
最後のメッセージは、三語だった。
彼女から届いたものだった。蓮は読んで、何も返さなかった。返せなかった。仕事なら、どんな長文でも訳せるのに。この三語だけは、何度訳しても同じ意味にしかならなかった。
窓の外の雨を見ながら、蓮は、あの日の正午の空を思い出した。青かった。腹が立つほど、青かった。
蓮は、画面に指を置いた。
Hola、と打った。消した。
Perdón、と打った。消した。
「¿Cómo estás?」、と打ってみて、これは誰に向けた文でもないと思って、消した。
雨音が窓を打っていた。三十四日分の雨音が、もうすっかり部屋の一部になっていた。蓮は、消えたメッセージ欄の白い画面を見て、そのまま、スマートフォンを伏せた。
その夜、蓮は納期より三時間早く、ホテルの案内文を訳し終えた。lluviosoの訳語は、最後まで「雨の多い」のままにした。
第七章 国境の朝|雨が降らなかった日の別れ
別れを言わなかった前の晩、蓮は、いつもの軒先にいた。
その日も昼に雨は降り、二人は同時に「ジュビオーソ」と言った。ロレンソが傘の数を数え直していた。カミラはノートに、「雨」の字を、もう一度書いていた。上手になっていた。
別れ際に、カミラが言った。
「明日の昼、またここで。最後に、ジュビオーソ、やろう」
蓮は、一瞬、言葉を探した。
「いいね」
と答えた。
「じゃあ、また明日」
蓮は、自分の口からそれが出てくるのを、他人の声のように聞いた。明日のバスは、朝の五時発だった。買ったのは三日前だった。それを、一度も、言い出せなかった。
宿に戻って、リュックに荷物を詰めた。「別れ損ねるとな」という声が、頭のどこかで鳴っていた。朝四時半、暗い道を歩いて、停留所に立った。誰も見送りに来なかった。誰にも言っていないのだから、当然だった。遠回りして、売店のある通りを避けた。それでも角を曲がるとき、一度だけ、そちらを見た。トタン屋根の下で、椅子が鎖でひとまとめにされているのが見えた気がした。暗くて、本当に見えたのかどうかは、わからなかった。
バスは、南の国境へ向かった。
窓の外は、朝から、雲ひとつない晴れだった。山の稜線が、くっきり見える。洗濯物がよく乾きそうな朝だった。それは、昼が来るまでの、いつもの景色だった。
国境の町に着いたのは、十一時を少し過ぎたころだった。出国の窓口には、長い列ができていた。蓮は、リュックを抱えて、その最後尾に並んだ。
前に並んでいた旅行者が、振り向いて言った。「珍しいな、今日は降らない」
「そうですね」
喉が渇いていた。蓮は水筒の蓋を開けて、飲む前に、閉めた。
十二時になった。
空は、青いままだった。
十二時十分。雲は、一つも湧かなかった。風も、冷たくならなかった。乾いた道路が、白く光っていた。
窓口の列は、ほとんど進まなかった。蓮はポケットのスマートフォンを取り出した。メッセージが一件、届いていた。
カミラからだった。
「Hoy no llueve.」
今日は、雨が降らない。
雨が降らなければ、あの軒先に立つ理由がない。ロレンソは今ごろ、一本も売れない傘のバケツの隣で、ゴミ袋も被らずに、店番をしているだろう。カミラは、青い空の下で、誰を待っているのか。あるいは、待っていないのか。
返信の入力欄が、開いていた。蓮は、そこに指を置いた。カーソルが点滅した。点滅するたびに、時間が、一秒ずつ、確実に過ぎた。
列が、一人分、進んだ。蓮は、画面を消した。
やがて蓮の番が来て、パスポートにスタンプが押された。ばかに大きな音がした。雨のない昼は、音がよく響いた。
返信は、しなかった。
第八章 隣国の昼の雨|返事のない軒先
隣の国でも、昼になると雨は降った。
ただ、その日は十二時を少し過ぎたころではなく、一時近くまで空は持ちこたえた。小さなバスターミナルの、屋根のない待合所で、蓮は座っていた。地面が熱を持ち、アスファルトの匂いが立ちのぼっていた。
雲が来た。風が変わった。最初の一粒が、リュックの上に落ちた。
蓮は、いちばん近い売店の軒先に走った。トタン屋根ではなく、波打つ樹脂の屋根だった。プラスチックの椅子が、四つ。先客は、サッカーの中継について何か言い合っている二人の男だけだった。
蓮は椅子に座った。雨が、屋根を叩いた。
「ジュビオーソ」
声は、軒先の下に、ぽつんと落ちた。
隣の男たちは、振り返らなかった。サッカーの話が続いていた。雨音は変わらず、同じ速さで降りつづけていた。
蓮は、待った。
「ヤビオーソ」と、返ってくる声を、待った。返事の分だけ、間があいた。その間に、雨音が入り込んだ。雨音は、思っていたよりずっと大きかった。
三十分ほどで雨は上がった。濡れたチノパンの裾が、足首に張りついていた。蓮は立ち上がり、リュックを背負って、ターミナルの方向へ歩きはじめた。
それから数日、昼になると、蓮は宿の近くの軒先を日替わりで探して歩いた。傘を売る少年がいた。五ドル、と少年は言った。ロレンソと同じ値段だった。蓮は買わなかった。少年は肩をすくめて、バケツの傘を一本ずつ数え直した。蓮は、その手つきを、少し長く見すぎた。
別の日は、食堂の庇の下で、老夫婦と並んだ。夫人が雨を見上げて、「Qué lluvia」と言った。蓮は「ジュビオーソ」と言いかけて、口を閉じた。夫人は不思議そうに蓮を見て、それから、にっこりして、「ジュビア」と言い直してくれた。それで、よかった。よかったはずなのに、軒先から出る蓮の足は、少し重かった。
その日から、雨の日になると、蓮は無意識に口のあとに、少し待つようになった。
第九章 三十五日目|雨上がりの東京で送った一通
目が覚めたとき、部屋が静かだった。
蓮は、天井を見たまま、しばらく動かなかった。何かが足りない。何が足りないのかが、わからなかった。それから、気づいた。窓を叩く音が、ない。
カーテンを開けた。
雲が、割れていた。ビルの谷間に、薄い青が、細く伸びていた。濡れたアスファルトが、朝の光を、鈍く返していた。ベランダの手すりから、最後の水滴が、一粒ずつ落ちていた。
三十五日目だった。
蓮は、玄関のドアの内側を見た。ビニール傘は、昨夜のまま、立てかけてあった。骨が片側だけ歪んだ、六百円の傘。蓮は、それを、手に取らなかった。
靴を履いて、外に出た。
昨日と同じバス停まで歩いた。チノパンの裾は、乾いていた。靴の底が、水たまりを踏むたびに、小さな音を立てた。
歩道では、傘を畳んだ人たちが、畳み方を忘れたような手つきで骨を揃えていた。コンビニの前で、店員が傘立てを片づけている。忘れ傘が、一本だけ残っていた。蓮は、少しだけ足を止めて、それから歩いた。
バス停の屋根の下に、小暮さんが立っていた。ベージュのレインコートは、折り畳んで、腕にかけてあった。
「あら、久保田さん」
「おはようございます」
「雨、止んだわね。三十四日ぶりかしら。三十五日目、って言うのかしら」
「どっちでも、同じことだと思います」
「傘は?」
「今日は、いらないんです。降ってないので」
小暮さんは、少し笑った。「そう。ジュビオーソは、卒業ね」
「ジュビオーソのつもりで、昨日まで来ましたけど」
「あら、うれしいことを言うのね」
小暮さんは、ノートを開いて見せた。昨日、蓮が間違って教えた「大雨」の文字が、線で消されて、「雨の多い」と書き直されていた。その横に、小さく、ペンの走り書きが一行増えていた。
「久保田さん 教えてくれた ジュビオーソ」
「それ、正しくは僕が教わったほうなんです」
「そうなの?」
「はい。誰かに」
小暮さんは、それ以上聞かなかった。ノートを閉じて、バスの来る方向を見た。
蓮は、バス停の端の、ベンチに座った。屋根の縁から、最後の水滴が、一粒だけ落ちて、足元の水たまりに輪を作った。
スマートフォンを開いた。
メッセージアプリ。「Camila」。画面の一番下に、彼女の最後の三語が、二年と四か月前の日付のまま、残っている。
Hoy no llueve.
蓮は、その下に、指を置いた。
打った。消さなかった。
「Hoy no llueve.」
同じ三語を、そのまま返した。それから、少し考えて、もう一行足した。
「Ayer llovió. Dije la palabra.」
昨日は降った。あの言葉を、言ったよ。
蓮は、画面を見つめた。送信の矢印が、薄い青に光っていた。親指を置くと、ほんのわずか、画面が沈んだ。
送った。
「送信済み」の文字が、小さく灰色に浮かんだ。その下には、まだ何も、表示されなかった。
遠くで、バスのエンジンの音がした。小暮さんが、ノートをバッグにしまっている。ビルの谷間の青が、少しずつ広がって、道路の水たまりが、空の色を映しはじめていた。
蓮は、ベンチから立たなかった。バスが来ても、立たなかった。
屋根の下で、雨の上がった空を見上げながら、画面が光るのを、待った。
物語に出てくるスペイン語|lluvia・lluvioso・aguacero の違い
lluvia(ジュビア/ヤビア)=雨
スペイン語で「雨」を表す基本の単語です。発音は地域で差があり、アルゼンチンやウルグアイ周辺では「ジュビア」「シュビア」に近く、多くの地域では「ヤビア」に近く発音されます。
lluvioso(ジュビオーソ/ヤビオーソ)=雨の多い、雨がちの
「雨の多い日」「雨がちの天気」を表す形容詞です。物語の中で蓮は「大雨」の意味だと思い込んでいましたが、本来は強さではなく、雨が多いことを表します。
aguacero(アグアセロ)=どしゃ降り、にわか雨
激しく降る雨、スコールを表す言葉です。中米の雨季の昼に降る雨には、こちらがよく使われます。







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