火と花の狭間に
第五章 鈴葉の罪
鈴葉が調べた結果を持ってきたのは、翌朝のことだった。
朱音の部屋に入ってきた鈴葉は、いつものように明るく振る舞おうとしていた。しかしその笑顔は、少し薄かった。目の下にうっすらと翳がある。眠れなかったのだと、朱音にはわかった。
「書き留めてきました」と鈴葉は言い、畳んだ紙を差し出した。「この一月、書斎に出入りした方々の名前です。思い出せる限り」
朱音は受け取り、広げた。
家老の名前、近習の名前、文書を届ける使番の名前。見知った顔ぶれが並んでいた。
そして、リストの末尾に、一つだけ、どこか筆跡が違う文字があった。
朱音はそれを、二度読んだ。
「鈴葉」
「はい」
「これは、誰だ」
鈴葉は少し間を置いた。
「……行商人、と名乗っていました。月に一度、書斎に薬草を届けにくる方です。半年前から」
「父上が薬草を取り寄せているとは知らなかった」
「持病の薬だとおっしゃっていました」
「父上に持病はない」
鈴葉は、黙った。
朱音は紙を膝に置き、鈴葉を見た。
「その行商人の顔を、覚えているか」
「……はい」
「どんな人物だった」
「五十を少し過ぎたくらいの、痩せた男でした。左の手の甲に、火傷の跡がありました」
朱音は、その特徴を頭に刻んだ。
「鈴葉」
「はい」
「その男と、話したことがあるか」
長い沈黙が落ちた。
朱音はその沈黙の中で、答えを待った。急かさなかった。急かせば、鈴葉は閉じる。第四章の夜に蒼介が言った言葉が、耳の奥で響いていた。——追い詰めるな。まだ。
やがて鈴葉は、膝の上で手を組んだ。
「……ございます」と、小さな声で言った。「話したことが、ございます」
鈴葉が話し始めたのは、ゆっくりと、しかし止まることなく続いた。
半年前、鈴葉は砦の裏手で、その男と出会った。男は道に迷ったと言い、書斎への道を尋ねた。鈴葉は案内した。それだけのことだったはずだった。
しかし次の月、男が再び来たとき、鈴葉を名指しで呼んだ。
「お前の兄のことを知っている、と言われました」と鈴葉は言った。「兄は三年前に、賭場の借金で人を傷つけて、逃げています。私はずっと、そのことを……」
「知っていた」と朱音は言った。鈴葉の兄のことは、ずっと前から知っていた。「それで」
「男は、兄の居場所を知っていると言いました。役人に引き渡すこともできると。そうなれば、兄は……」
鈴葉の声が、かすれた。
「だから」と朱音は静かに続きを引き取った。「何かを頼まれた」
鈴葉は頷いた。一度だけ、小さく。
「書斎への出入りを、報告するように言われました。誰が来たか、何が運ばれたか、どんな書状が届いたか。月に一度、男が来るとき、私が覚えていることを話す。それだけでいい、と」
「それだけ、か」
「……先月から、もう一つ頼まれました」と鈴葉は言った。そこで一度、唇を噛んだ。「お嬢様の動きも、報告するように、と」
部屋の中が、しんと静まった。
朱音は、何も言わなかった。
怒りが来なかった。胸の中がすうっと、冷たくなった。怒るよりも先に、全部が繋がっていく感覚が来た。父の書斎への出入り人の情報が外に漏れていた経路がここにある。そして自分の動きも、どこかに筒抜けていた可能性がある。
「朱音様」と鈴葉は言った。今度は「あかね様」ではなく、幼い頃の呼び方だった。「申し訳ございません。わかっています、許されないことだと。でも兄が——」
「鈴葉」
「はい」
「あなたが報告したことの中に、私が牙嶋の陣へ行くことは含まれているか」
鈴葉は、はっとした顔をした。
「……含まれています。昨夜、男が来て、私は……お嬢様が二日に一度、夜に外へ出ていることを、話してしまいました」
朱音はすぐに立ち上がった。
「いつ、その男は来た」
「昨夜の——四つ過ぎです」
昨夜の四つ過ぎ。朱音が蒼介の幕舎にいた時刻と、ほぼ重なる。
「その男の行き先を知っているか」
「砦を出て、北の山道を下ると……」鈴葉は額に手を当てた。「一度だけ、後をつけたことがあります。途中で見失いましたが、北の茶屋の方向へ向かっていました」
北の茶屋。
霞廻と牙嶋の領地の、ちょうど中間にある。
朱音は帯を締め直し、脇差を手に取った。
「朱音様、どこへ——」
「鈴葉」と朱音は言った。立ち止まらずに言った。「あなたを、咎める気はない。今は」
「でも——」
「ただ一つだけ聞く。これからも、その男に報告するつもりがあるか」
鈴葉は首を横に振った。激しく、何度も。
「ありません。もうしません。最初から、するべきではありませんでした。私は、朱音様の——」
「わかった」と朱音は短く言った。「行ってくる」
北の茶屋は、山道の途中にある小さな掘立小屋だった。
かつては旅人が雨宿りに使ったものだが、今は誰も使わず、板壁が腐りかけている。朱音は幼い頃にその前を通ったことがあった。薄暗くて、少し怖かった記憶がある。
茶屋に近づく前に、朱音は木立の影で足を止めた。
中に、人の気配があった。
一人ではない。声が聞こえる。低い声と、もっと低い声。二人、あるいは三人。
朱音は息を殺し、耳を澄ませた。
板壁の隙間から、言葉が漏れてきた。
「……娘が動いている。牙嶋の陣に、複数回入った形跡がある」
「誰と会っている」
「おそらく次男だ。蒼介とかいう」
「あの男か。厄介だな」
「当主に知らせるか」
「まだいい。泳がせろ。二人が何を掴もうとしているか、もう少し見極めてから動く」
低い声が、笑った。
「いずれにせよ、霞廻の娘も、牙嶋の次男も、俺たちの絵図には邪魔だ。頃合いを見て、始末する」
朱音は、木の幹に背を当て、動かなかった。
始末する、という言葉が、夜の空気の中に溶けていった。
動揺はなかった。あとで、ゆっくり動揺する時間を作ればいい。今は聞くことだけに集中しなければならない。
「典之進は使えるか」
「まだ使える。あの男は藩を守ることしか考えていない。そこを握っている限り、言うことを聞く」
「三年の保証など、守るつもりはないがな」
また笑い声が来た。今度は複数の、低い笑い声だった。
朱音の手が、脇差の柄を、きつく握った。
(父は、騙されている)
保証など守るつもりはない。三年の後に、霞廻は消される。父はそれを知らずに、娘を危険に晒してまで、この取引を守ろうとしている。
「お前の主は、いつ動く」
「春の軍議が終わり次第だ。牙嶋を動かして霞廻を削り、その隙に我らが介入する。両藩が消耗し切った頃合いに、すべてを回収する」
「見事な絵図だ」
「言われるまでもない」
朱音は木立の影から、茶屋の輪郭だけを目で確かめた。
入り口は一つ。裏に小さな窓がある。中に三人。
一人で踏み込むには、数が多い。
それに今は、中で話されていることのほうが大事だ。全部聞く必要がある。
朱音はそのまま、動かずに聞き続けた。
夜の山に、梟が鳴いた。
茶屋の人間たちが散ったのは、夜の七つ(深夜零時過ぎ)を回った頃だった。
朱音は木立の影で、それをじっと待った。三人の影が別々の方向へ消えるのを見届けてから、茶屋の中へ入った。
行灯の燃えかすがあった。消したばかりで、まだ油のにおいがした。
地べたに、一枚の紙が落ちていた。
朱音は拾い上げ、月明かりにかざした。
書きかけの文書だった。途中まで書いて、破り捨てようとして——しかし暗がりの中で、落としてしまったのだろう。
読んだ。
そこには、朱音がまだ知らなかったことが、一行だけ書かれていた。
指示を出している「主」の名前が、そこにあった。
朱音はその名を、三度読んだ。
一度目は、信じられなかった。
二度目は、震えた。
三度目に、ようやく受け入れた。
紙を懐にしまい、茶屋を出た。
空が、少しだけ白み始めていた。
蒼介に、知らせなければならない。
父に、知らせなければならない。
そしてその前に——自分がこの名前とどう向き合うか、一人で決めなければならない。
朱音は山道を下りながら、その名前を頭の中で繰り返した。
繰り返すたびに、霞廻の霧が、少しずつ晴れていく気がした。
晴れていく先に何があるかは、まだわからなかった。
しかし霧が晴れることを、今夜初めて、怖いとは思わなかった。
── 第五章、了
(次章予告:朱音は「主」の名前を携えて蒼介のもとへ向かう。しかし陣の入り口で、予期せぬ者と鉢合わせる——)







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