火と花の狭間に
第七章 父と娘
夜が明けた。
霞廻に朝が来るとき、まず山の稜線が白くなる。次に鳥が鳴く。それから、砦の炊事場から煙が上がる。朱音は子供の頃から、その順番が好きだった。何が来ても、翌朝は同じ順番で始まる。それが、この藩に生まれたことの数少ない、確かなものだと思っていた。
今朝は、その煙を見ながら、書斎へ向かった。
小箱を持って。
典之進は、まだ書き物をしていた。
朱音が障子を開けると、父は顔を上げた。いつものように目を細めた。しかし今朝は、その目が一瞬だけ、朱音の手元にある小箱を見た。
それだけで、父にはわかったはずだった。
「座れ」と典之進は言った。
朱音は座った。小箱を、父の文机の前に置いた。
二人の間に、しばらく何もなかった。
炭が爆ぜた。遠くで鶏が鳴いた。
先に口を開いたのは、父だった。
「いつ見た」
「三日前の夜です」
「そうか」
典之進は筆を置いた。墨が紙に滲むのを、静かに見ていた。
「怒っているか」と父は言った。
朱音は少し考えた。
「怒っていません」と答えた。「ただ、知りたいことがある」
「何を」
「なぜ私に黙っていたのか。それだけです」
典之進は、しばらく文机の木目を見ていた。長い沈黙だった。朱音はその沈黙を、急かさなかった。父が言葉を選んでいるとき、待てないほど子供ではなかった。
「お前に、汚いものを見せたくなかった」とやがて父は言った。「この藩を守るために、俺がしてきたことは、きれいなものではない。それはわかっている。しかしお前だけには、その汚さの外にいてほしかった」
「私はすでに、その中にいます」と朱音は言った。「父上が私を密偵として遣わした日から」
典之進は、目を閉じた。
「……そうだな」
「父上」
「何だ」
「三国の大隅を知っていますか」
父の目が、開いた。
今朝初めて、その目に、驚きが浮かんだ。
朱音は話した。
北の茶屋で聞いたこと、拾った紙に書かれていた名前、柾之進と蒼介と三人で話し合ったこと、春の軍議まで十日しかないこと。全部、順番に、感情を挟まずに話した。
典之進は黙って聞いていた。
一度も遮らなかった。一度も顔色を変えなかった。ただ、静かに、娘の言葉を受け取っていた。
朱音が話し終えると、父はしばらく天井を見た。
「三国が仕掛けたか」と低い声で言った。
「そう考えると、全てが繋がります」
「榊を使って牙嶋の軍議を動かし、霞廻との取引を持ちかけてきたのも——三国の絵図の中だったということか」
「取引はどこから来ましたか」と朱音は聞いた。「牙嶋の当主直々に?」
「……いや」と典之進は言った。少し間を置いて。「仲介の者がいた。名乗らない者だったが、信用できる情報を持っていた。それで信じた」
「その者の、左手に火傷の跡がありましたか」
父が、朱音を見た。
「……あった」
「榊の使いです。書斎に薬草を届けに来ていた行商人と、同一人物かもしれない」
典之進は、ゆっくりと目を閉じた。
それから、静かに言った。
「俺は、騙されていたのか」
その声には、怒りがなかった。
あったのは——老いた、と朱音が初めて思うような、疲れだった。
「父上」
「お前の母が死んで二十年、この藩だけを見てきた」と典之進は言った。目を閉じたまま。「大きな藩に挟まれて、削られて、それでも残してきた。お前が生まれたこの藩を、お前に渡すまでは、と思っていた。そのためなら何でもすると思っていた。しかしその何でもが——」
言葉が、途中で止まった。
朱音は、父の手を見た。
文机の上に置かれた父の手が、かすかに震えていた。
朱音は生まれて初めて、父の手が震えているのを見た。
「父上」と朱音は言った。
典之進が目を開けた。
「私には、三日あります」と朱音は言った。「牙嶋の柾之進と蒼介も動いています。三日後の夜、石橋で全員が証拠を持ち寄る。そこで榊を告発するための段取りを組む。父上には、牙嶋の当主へ直談判する役を担ってほしい」
「俺が牙嶋の当主と話すのか」
「父上以外に、できる立場の者がいません。取引の当事者として、騙されたことを訴える。それが一番、牙嶋の当主の心を動かせる」
典之進はしばらく朱音を見ていた。
今朝ここに来た娘の顔を、あらためて見るように。
「お前は、いつからそんなに大人になった」
「父上が育てました」と朱音は答えた。
典之進は、少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれなかった。わからなかった。しかしその目の奥に、何か温かいものが一瞬だけ灯ったのは、見えた。
「……わかった」と父は言った。「三日後の夜、石橋へ行く」
「一人で来てください。護衛は余分な耳になります」
「わかっている」
朱音は立ち上がった。
小箱は、文机の上に残しておいた。
「父上」
「何だ」
「一つだけ言わせてください」
典之進は黙って、続きを待った。
「私は、父上を怒っていない。怒れない。父上がしたことの理由が、わかるから」
「……」
「ただ、次から黙っていないでください。汚いものでも、きれいでないものでも、私は父上の娘です。一緒に見ます」
典之進は、しばらく何も言わなかった。
朱音は待たずに、障子を閉めた。
廊下に出ると、胸の中に、冷たくも温かくもない、静かな何かが残った。
泣かなかった。
泣く必要が、なかった。
全部、言えたから。
部屋に戻ると、鈴葉が待っていた。
正座して、膝の上に手を置いて、朱音が来るのを待っていた。その姿勢が、覚悟のある者のそれだったので、朱音は少し立ち止まった。
「あかね様」と鈴葉は言った。「私も、連れて行ってください」
「どこへ」
「三日後の、石橋へ」
朱音は、鈴葉の目を見た。
「行商人の男のことを、私は顔で知っています」と鈴葉は続けた。「もし石橋に榊の使いが来れば、見分けることができます。それくらいしか、役に立てませんが」
「危ない」と朱音は言った。「あの場に来れば、あなたは情報屋として狙われるかもしれない」
「それでも」と鈴葉は言った。「私がしたことを、私が始末しなければ、朱音様に顔向けができません」
朱音は、しばらく鈴葉を見た。
幼い頃から知っている顔だった。よく笑って、よく泣いて、感情が全部顔に出る顔だった。今は笑っておらず、泣いてもおらず、ただまっすぐに朱音を見ていた。
「……わかった」と朱音は言った。「ただし、私の側を離れるな。何があっても」
「はい」と鈴葉は、深く頭を下げた。
朱音は鈴葉の隣に座り、帯に結んだ鈴を指で触れた。
小さな音が、かすかに鳴った。
三日後まで、あと三日ある。
朱音は初めて、それを長いと思わなかった。
短い、と思った。
やるべきことが、まだたくさんあった。
その夜、朱音は文机に向かい、初めて自分の手で書状を書いた。
宛名は、蒼介だった。
長い書状ではなかった。三行だけだった。
——父は動きます。三日後、必ず石橋へ。それから一つだけ。あなたが私に言ったことを、私も同じように思っています。言葉にするのが遅れました。
書いてから、最後の一行を消そうか迷った。
しかし消さなかった。
消す理由が、なかった。
書状を折り、帯に差した鈴の紐に結んだ。
明日の夜、杉の木の枝に結ぶ。
それだけで、届く。
朱音は行灯を消した。
闇の中で、しばらく目を開けていた。
暗くても、怖くなかった。
見えないことと、なくなることは、違う——父の言葉が、今夜だけは素直に、胸の中に入ってきた。
── 第七章、了
(次章予告:三日後の夜、石橋に五人が集う。しかし待ち受けていたのは、榊だけではなかった——)







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