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火と花の狭間に 第七章「父と娘」|隠されていた真実と親子の和解、石橋決戦への約束

2026年7月14日火曜日

サブカルチャー ブログ 生成AI

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火と花の狭間に

第七章 父と娘

 夜が明けた。

 霞廻に朝が来るとき、まず山の稜線が白くなる。次に鳥が鳴く。それから、砦の炊事場から煙が上がる。朱音は子供の頃から、その順番が好きだった。何が来ても、翌朝は同じ順番で始まる。それが、この藩に生まれたことの数少ない、確かなものだと思っていた。

 今朝は、その煙を見ながら、書斎へ向かった。

 小箱を持って。


 典之進は、まだ書き物をしていた。

 朱音が障子を開けると、父は顔を上げた。いつものように目を細めた。しかし今朝は、その目が一瞬だけ、朱音の手元にある小箱を見た。

 それだけで、父にはわかったはずだった。

 「座れ」と典之進は言った。

 朱音は座った。小箱を、父の文机の前に置いた。

 二人の間に、しばらく何もなかった。

 炭が爆ぜた。遠くで鶏が鳴いた。

 先に口を開いたのは、父だった。

 「いつ見た」

 「三日前の夜です」

 「そうか」

 典之進は筆を置いた。墨が紙に滲むのを、静かに見ていた。

 「怒っているか」と父は言った。

 朱音は少し考えた。

 「怒っていません」と答えた。「ただ、知りたいことがある」

 「何を」

 「なぜ私に黙っていたのか。それだけです」

 典之進は、しばらく文机の木目を見ていた。長い沈黙だった。朱音はその沈黙を、急かさなかった。父が言葉を選んでいるとき、待てないほど子供ではなかった。

 「お前に、汚いものを見せたくなかった」とやがて父は言った。「この藩を守るために、俺がしてきたことは、きれいなものではない。それはわかっている。しかしお前だけには、その汚さの外にいてほしかった」

 「私はすでに、その中にいます」と朱音は言った。「父上が私を密偵として遣わした日から」

 典之進は、目を閉じた。

 「……そうだな」

 「父上」

 「何だ」

 「三国の大隅を知っていますか」

 父の目が、開いた。

 今朝初めて、その目に、驚きが浮かんだ。


 朱音は話した。

 北の茶屋で聞いたこと、拾った紙に書かれていた名前、柾之進と蒼介と三人で話し合ったこと、春の軍議まで十日しかないこと。全部、順番に、感情を挟まずに話した。

 典之進は黙って聞いていた。

 一度も遮らなかった。一度も顔色を変えなかった。ただ、静かに、娘の言葉を受け取っていた。

 朱音が話し終えると、父はしばらく天井を見た。

 「三国が仕掛けたか」と低い声で言った。

 「そう考えると、全てが繋がります」

 「榊を使って牙嶋の軍議を動かし、霞廻との取引を持ちかけてきたのも——三国の絵図の中だったということか」

 「取引はどこから来ましたか」と朱音は聞いた。「牙嶋の当主直々に?」

 「……いや」と典之進は言った。少し間を置いて。「仲介の者がいた。名乗らない者だったが、信用できる情報を持っていた。それで信じた」

 「その者の、左手に火傷の跡がありましたか」

 父が、朱音を見た。

 「……あった」

 「榊の使いです。書斎に薬草を届けに来ていた行商人と、同一人物かもしれない」

 典之進は、ゆっくりと目を閉じた。

 それから、静かに言った。

 「俺は、騙されていたのか」

 その声には、怒りがなかった。

 あったのは——老いた、と朱音が初めて思うような、疲れだった。

 「父上」

 「お前の母が死んで二十年、この藩だけを見てきた」と典之進は言った。目を閉じたまま。「大きな藩に挟まれて、削られて、それでも残してきた。お前が生まれたこの藩を、お前に渡すまでは、と思っていた。そのためなら何でもすると思っていた。しかしその何でもが——」

 言葉が、途中で止まった。

 朱音は、父の手を見た。

 文机の上に置かれた父の手が、かすかに震えていた。

 朱音は生まれて初めて、父の手が震えているのを見た。

 「父上」と朱音は言った。

 典之進が目を開けた。

 「私には、三日あります」と朱音は言った。「牙嶋の柾之進と蒼介も動いています。三日後の夜、石橋で全員が証拠を持ち寄る。そこで榊を告発するための段取りを組む。父上には、牙嶋の当主へ直談判する役を担ってほしい」

 「俺が牙嶋の当主と話すのか」

 「父上以外に、できる立場の者がいません。取引の当事者として、騙されたことを訴える。それが一番、牙嶋の当主の心を動かせる」

 典之進はしばらく朱音を見ていた。

 今朝ここに来た娘の顔を、あらためて見るように。

 「お前は、いつからそんなに大人になった」

 「父上が育てました」と朱音は答えた。

 典之進は、少しだけ目を細めた。

 笑ったのかもしれなかった。わからなかった。しかしその目の奥に、何か温かいものが一瞬だけ灯ったのは、見えた。

 「……わかった」と父は言った。「三日後の夜、石橋へ行く」

 「一人で来てください。護衛は余分な耳になります」

 「わかっている」

 朱音は立ち上がった。

 小箱は、文机の上に残しておいた。

 「父上」

 「何だ」

 「一つだけ言わせてください」

 典之進は黙って、続きを待った。

 「私は、父上を怒っていない。怒れない。父上がしたことの理由が、わかるから」

 「……」

 「ただ、次から黙っていないでください。汚いものでも、きれいでないものでも、私は父上の娘です。一緒に見ます」

 典之進は、しばらく何も言わなかった。

 朱音は待たずに、障子を閉めた。

 廊下に出ると、胸の中に、冷たくも温かくもない、静かな何かが残った。

 泣かなかった。

 泣く必要が、なかった。

 全部、言えたから。


 部屋に戻ると、鈴葉が待っていた。

 正座して、膝の上に手を置いて、朱音が来るのを待っていた。その姿勢が、覚悟のある者のそれだったので、朱音は少し立ち止まった。

 「あかね様」と鈴葉は言った。「私も、連れて行ってください」

 「どこへ」

 「三日後の、石橋へ」

 朱音は、鈴葉の目を見た。

 「行商人の男のことを、私は顔で知っています」と鈴葉は続けた。「もし石橋に榊の使いが来れば、見分けることができます。それくらいしか、役に立てませんが」

 「危ない」と朱音は言った。「あの場に来れば、あなたは情報屋として狙われるかもしれない」

 「それでも」と鈴葉は言った。「私がしたことを、私が始末しなければ、朱音様に顔向けができません」

 朱音は、しばらく鈴葉を見た。

 幼い頃から知っている顔だった。よく笑って、よく泣いて、感情が全部顔に出る顔だった。今は笑っておらず、泣いてもおらず、ただまっすぐに朱音を見ていた。

 「……わかった」と朱音は言った。「ただし、私の側を離れるな。何があっても」

 「はい」と鈴葉は、深く頭を下げた。

 朱音は鈴葉の隣に座り、帯に結んだ鈴を指で触れた。

 小さな音が、かすかに鳴った。

 三日後まで、あと三日ある。

 朱音は初めて、それを長いと思わなかった。

 短い、と思った。

 やるべきことが、まだたくさんあった。


 その夜、朱音は文机に向かい、初めて自分の手で書状を書いた。

 宛名は、蒼介だった。

 長い書状ではなかった。三行だけだった。

 ——父は動きます。三日後、必ず石橋へ。それから一つだけ。あなたが私に言ったことを、私も同じように思っています。言葉にするのが遅れました。

 書いてから、最後の一行を消そうか迷った。

 しかし消さなかった。

 消す理由が、なかった。

 書状を折り、帯に差した鈴の紐に結んだ。

 明日の夜、杉の木の枝に結ぶ。

 それだけで、届く。

 朱音は行灯を消した。

 闇の中で、しばらく目を開けていた。

 暗くても、怖くなかった。

 見えないことと、なくなることは、違う——父の言葉が、今夜だけは素直に、胸の中に入ってきた。


── 第七章、了

(次章予告:三日後の夜、石橋に五人が集う。しかし待ち受けていたのは、榊だけではなかった——)

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