火と花の狭間に
第六章 霧の中の兄
牙嶋の陣が見えてきた頃、朱音は足を止めた。
白い小石のしるしを探す前に、視線が何かを捉えた。
杉木立の縁、陣の外周から少し離れた場所に、人影があった。一人。立っている。動かない。
番兵ではない。番兵はあの位置には立たない。
朱音はすぐに木の幹の影に身を寄せ、息を殺した。
人影は、朱音の方を向いていた。
いや——正確には、朱音が来る方向を、最初から見ていた。
(待ち伏せだ)
朱音は脇差に手をかけた。しかし抜かなかった。抜けば音がする。それに、相手がまだ気づいていない可能性もある。
しかし人影は、ゆっくりと朱音の方へ歩き始めた。
月明かりに、顔が浮かんだ。
朱音は、その顔を知らなかった。
三十半ばほどの男だった。体格がよく、肩幅が広い。装束は上等で、腰に大刀と脇差を二本差している。歩き方に迷いがない。慣れた者の、歩き方だ。
「霞廻の娘か」と男は言った。声は低く、しかし感情が薄かった。「やはり来たな」
「あなたは誰だ」と朱音は言った。木の影から出ずに答えた。
「牙嶋 柾之進(まさのしん)だ」
朱音は、その名を一拍で理解した。
蒼介の兄だ。
柾之進は朱音に近づこうとしなかった。
その場に立ったまま、腕を組んだ。戦う気配はなかったが、逃がす気配もなかった。
「弟から聞いた。お前が二度、陣に忍び込んだと」
(蒼介が話した)
朱音は一瞬、胸の中で何かが揺れた。しかしすぐに考えた。蒼介が自ら話したのか、気づかれたのか。どちらかによって、意味が変わる。
「蒼介が、あなたに話したのか」
「俺が気づいた」と柾之進は言った。「弟の動きが変わったからだ。あれは隠し事をするとき、妙に真面目な顔になる。子供の頃からそうだ」
「それで、蒼介を問い詰めたか」
「問い詰めるほどのことではない」と柾之進は言った。「弟が霞廻の密偵と接触していることは、だいたいわかった。何を企んでいるかも、おおよそ見当はつく」
「見当がつくなら、なぜ今まで止めなかった」
柾之進はしばらく黙った。
「止める理由がなかったからだ」
朱音は、その答えを測った。
「蒼介の動きが、あなたの利になるということか」
「俺は手柄が欲しい。しかし弟の言う通り、消耗した霞廻を攻めても、手柄にはならない。強い霞廻を正面から崩してこそ、名が上がる」
「それは建前だ」
柾之進は、わずかに目を細めた。
「続けろ」
「牙嶋の陣の中に、あなたが知らない動きがある。榊 嶺右衛門という男が、牙嶋の外と文書を交わしている。あなたの命ではなく、別の主の命で動いている」
長い沈黙が来た。
柾之進の表情は変わらなかった。しかしその目の奥で、何かが動いたのを朱音は見た。
「榊のことを、どこで知った」
「調べた」
「蒼介と一緒に」
「そうだ」
柾之進は、空を見上げた。夜明け前の、まだ暗い空だった。
「榊は俺の父が信頼している男だ。長年、牙嶋の諜報を支えてきた。それが別の主に繋がっているとすれば——」
「牙嶋も、霞廻と同じく、操られている側だということになる」
柾之進は空から視線を下ろし、朱音を見た。
初めて、その目に感情らしいものが浮かんだ。
「お前は、俺を信用するか」
「今夜会ったばかりの人間を、信用する理由がない」と朱音は答えた。「しかし、利害は一致している。それで十分だ」
柾之進は少し考えてから、短く笑った。蒼介の笑い方とは違う、もっと乾いた笑い方だった。
「なるほど。弟が接触するはずだ」
「どういう意味だ」
「お前は、話が早い」
幕舎の小部屋に三人が揃ったのは、夜明けの一刻前だった。
蒼介は朱音が兄を連れてきたのを見て、一瞬だけ表情が固まった。しかしすぐに戻した。固まったのが一瞬だけだったことを、朱音は見ていた。
「兄上」と蒼介は言った。
「座れ」と柾之進は言った。兄弟の間にある力関係が、その二文字に全部入っていた。
三人は文机を囲んで座った。行灯が一つ、三人の顔を照らした。
「朱音が話した」と柾之進は蒼介に言った。「榊の件だ。お前も調べていたな」
「はい」
「どこまでわかった」
蒼介は朱音を一度見た。朱音は小さく頷いた。
「榊は牙嶋の外の誰かと繋がっています。その人物が、霞廻と牙嶋の両方に手を入れて、共倒れを狙っている」
「共倒れにして、その後に介入する算段だな」と柾之進は言った。「春の軍議が終わったら動くと聞こえたか」と、今度は朱音へ向けた。
「聞こえた」
「ならば時間がない。春の軍議は十日後だ」
十日。
朱音は、その数字を胸に刻んだ。
「黒幕の名前がわかった」と朱音は言った。
部屋の空気が、変わった。
蒼介と柾之進が、同時に朱音を見た。
朱音は懐から紙を取り出し、文机の上に置いた。
「北の茶屋で拾った。書きかけの文書だ」
柾之進が先に手を伸ばし、月明かりに透かした。一行読んで、眉が動いた。蒼介が隣から覗き込んだ。
「……三国(みくに)の大隅(おおすみ)か」と柾之進が言った。「あの男が」
「知っているか」と朱音は聞いた。
「知っている。東の大国だ。五年前から少しずつ勢力を伸ばしている。霞廻と牙嶋の間に挟まれた土地を欲しがっているという噂は聞いていたが——まさか両方に手を入れているとは」
「榊はどこで三国と繋がった」
「わからん。しかし榊の出自は三国に近い土地だ。もともと繋がりがあってもおかしくはない」
蒼介が口を開いた。
「三国が動くのが春の軍議後なら、それまでに榊を押さえる必要があります。しかし榊は父上の信任が厚い。俺たちだけでは——」
「父上を動かすしかない」と柾之進が言った。「しかしそれには、証拠が必要だ。この紙一枚では足りない」
「もう一つある」と朱音は言った。
二人が朱音を見た。
「父の書斎の小箱に、牙嶋の当主からの書状があった。取引の内容が書かれたものだ。しかしその書状の端に、三国の印に似た刻印があった。薄かったが、確かに見た」
「三国が媒介した取引、ということか」と柾之進が言った。
「そうだ。あの書状と、この紙を合わせれば——」
「榊と三国の繋がりが、物証になる」と蒼介が続けた。
部屋の中に、短い沈黙が来た。
三人がそれぞれ、考えている沈黙だった。
「書状を持ち出せるか」と柾之進が朱音に聞いた。
「できる」と朱音は答えた。「ただし父に知られる」
「構わない。どうせ父上には話さなければならない。霞廻の当主を動かせるのは、お前だけだ」
朱音は、柾之進を見た。
「なぜそう思う」
「父親というのは」と柾之進はわずかに間を置いて言った。「娘には、弱いものだ。俺の父もそうだった」
その言葉は、意外なほど静かな声で出てきた。戦場に立つような男の声ではなく、もっと遠いところにある、個人的な記憶の声だった。
朱音は何も言わなかった。
「三日で準備する」と柾之進は立ち上がった。「俺は榊の周辺を固める。蒼介、お前は父上への段取りを考えろ。霞廻の娘——」
「朱音だ」
柾之進は少し止まった。
「……朱音。書状を持ち出し、父上を説得しろ。三日後の夜、霞廻と牙嶋の境の、古い石橋で落ち合う。そこで全員の話を合わせる」
「わかった」
「一つだけ言っておく」と柾之進は幕舎の出口で振り返った。「俺はお前たちの事情に、肩入れするつもりはない。霞廻が助かるかどうかも、俺には関係ない。ただ」
「ただ?」
「牙嶋が誰かの道具に使われることが、気に入らない」
それだけ言って、柾之進は出ていった。
二人になった部屋で、蒼介が小さく息をついた。
「驚いた」と言った。「兄上を連れてくるとは思わなかった」
「捕まった」と朱音は正直に言った。「正確には、待ち伏せられた。逃げることもできたが、そのほうが早いと思った」
「早い?」
「いずれ話さなければならない相手なら、早いほうがいい」
蒼介は少し笑った。
「お前は、怖くないのか」
「何が」
「兄上だ。あの人は、怖い人間だ」
「怖かった」と朱音は答えた。「ただ、怖いかどうかと、話すべきかどうかは別だ」
蒼介はしばらく朱音を見ていた。
「渡したいものがある、と言っていたな」と朱音は言った。「三日前に」
「ああ」と蒼介は立ち上がり、棚の奥から小さな布包みを取り出した。朱音の前に置いた。「開けろ」
朱音は布を解いた。
中には、細い紐が一本あった。
紐の端に、小さな鈴がついていた。
「何だ、これは」
「陣の中で俺を呼ぶ合図だ」と蒼介は言った。「もし急ぎで知らせが必要になったとき、陣の外の杉の木の枝に結んでおけ。俺が見回りのついでに確認する。引っ張れば音がして、俺だけに聞こえる」
朱音は鈴を手のひらに乗せた。
小さかった。軽かった。指で弾くと、かすかに鳴った。
「三日後まで待てないことが起きるかもしれない」と朱音は言った。「その用意か」
「そうだ」
「……用意がいいな」
「お前が無茶をしそうだったから」と蒼介は言った。「根拠はないが、確信はある」
今度は朱音が、笑いそうになった。
今夜は二度目だった。
「受け取る」と言い、紐を帯に結んだ。
蒼介が「行くか」と言った。
「ああ」と朱音は答えた。
立ち上がりながら、ふと思った。
最初にこの幕舎に来たとき、出口を確かめることだけを考えていた。次にいつ逃げるか、どこへ走るか、それしか頭になかった。
今夜は、三日後のことを考えている。
それが怖いことなのか、そうでないのかは、まだわからなかった。
ただ、三日後が来ることを、今夜初めて、待ちたいと思った。
── 第六章、了
(次章予告:朱音は父・典之進の前に立つ。小箱の書状を手に——「父上、全部、知っています」)







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