火と花の狭間に
第四章 二度目の夜
約束の夜が来た。
朱音は今度、水桶を持たなかった。
持っていく必要がなかった。蒼介が陣の外周に、朱音だけが気づけるしるしを残しておくと言っていた。杉の木の根元に、白い小石を三つ並べる。そこから十歩、真東へ進めば、番兵の巡回が重ならない細い隙間がある、と。
果たして、しるしはあった。
白い小石が、霧の中でぼんやり光っていた。
(信じた通りだった)
朱音は十歩、東へ踏み込んだ。
幕舎の小部屋には、また行灯が一つ灯っていた。
蒼介は朱音が来るのを分かっていたように、文机の前に座っていた。前回と同じ場所に、前回と同じ姿勢で。ただ今夜は、茶ではなく、小さな椀が二つ置いてあった。
「粟の雑炊だ」と蒼介は言った。「陣の料理番が夜食に作ったものを分けてもらった。毒は入っていない」
「毎回言わなくていい」
「毎回確かめたそうな顔をしているから」
朱音は椀を見た。湯気が立っている。温かいものを、ここ二日ほどまともに食べていなかった。椀を受け取り、一口すすった。
薄い味だった。しかし、腹に染みた。
「調べたか」と蒼介は言った。
「調べた」
「俺もだ」
「どちらから話す」
「お前から聞く」
朱音は椀を膝に置いた。
「父の書斎に、小箱があった。牙嶋の当主からの書状と、父の返書の草稿が入っていた。内容は——北の守りを一夜空ける代わりに、霞廻の存続を三年保証する、というものだった」
蒼介は黙って聞いていた。
「父は私にそれを話さなかった。密書の存在も、取引の中身も。ただ私を遣わして、巻物を持ち帰れと言った」
「……お前を遣わした本当の理由が、巻物ではない可能性がある」
「わかっている」
「考えたか。なぜ父君はお前を使ったのか」
「一つは、私が信頼できるから。もう一つは」と朱音は言って、一拍置いた。「私に、何かを見させたかったのかもしれない」
蒼介の目が、わずかに動いた。
「見させたかった、とは」
「父はあの書斎に私が入れないとは思っていない。子供の頃から、あの部屋は私の庭のようなものだった。小箱を隠すなら、もっと別の場所にするはずだ。しかし引き出しの奥に、鍵一つで置いてあった」
「……わざと、見つけさせた」
「確かめようがない。しかし、そう考えると辻褄が合う」
蒼介はしばらく黙っていた。行灯の炎が揺れた。
「父君は、お前に真実を知ってほしかったのかもしれない。口では言えないまま」
「あるいは」と朱音は言った。「私を試していた。どこまで動けるか」
「どちらだと思う」
「どちらでも、今は同じことだ」と朱音は答えた。「父が牙嶋と取引をしたのは事実だ。しかしその取引を仕組んだのが誰なのかが、まだわからない」
「その話に続く」と蒼介は言い、膝の前に一枚の紙を広げた。「俺が調べたことだ」
紙には、いくつかの名前が書いてあった。
「牙嶋の家中に、暗部頭と呼ばれる男がいる。名は榊 嶺右衛門(さかき みねえもん)という。表向きは兵站を管理する役人だが、実際には藩内外の諜報を仕切っている。密書のやり取りも、この男が間に立っている可能性が高い」
「それは以前も話した」
「ここからが新しい話だ」と蒼介は言った。「榊は、牙嶋の当主の命だけで動いていない。もう一人、別の主がいる」
朱音は、蒼介の目を見た。
「誰だ」
「まだ名前はわかっていない。しかし榊が別ルートで書状を送っている相手がいることは、榊の部下の一人から聞き出した。その部下は、『遠国の大名』と言った」
「遠国の」
「牙嶋とも霞廻とも別の、第三の勢力が、この戦を外から動かしている可能性がある」
朱音は、しばらくその言葉を転がした。
戦国の世に、漁夫の利を狙う者がいることは珍しくない。二つの藩が消耗し合えば、その隙に第三の者が入り込める。しかしそれを仕組むには、両藩の内部に手を伸ばせるだけの力と、情報網が必要だ。
「榊は誰に雇われている」
「それを調べている。もう少し時間がいる」
「部下から聞き出したとは、どういう手を使った」
蒼介は少し間を置いた。
「酒だ」と言った。「酒を飲ませて、話させた」
「拷問ではなく?」
「拷問で得た話は信じない。痛みに耐えられなくなれば、人は相手が聞きたいことを言う。それは情報ではなく、苦しさから逃げるための言葉だ」
朱音はその答えを聞いて、蒼介という人間の輪郭が少し明確になった気がした。
戦を嫌うと言っていた。それは言葉だけではないようだった。
「鈴葉に、父の書斎への出入り人を調べさせている」と朱音は言った。「榊と霞廻が繋がっているとすれば、使った者がいるはずだ」
「鈴葉というのは」
「私の侍女だ。幼なじみでもある」
「信頼できるか」
朱音は一拍、止まった。
「……これまでは、疑ったことがなかった」
「今は?」
「わからない」と正直に言った。「一昨日、妙なことを言った。『私はあかね様の味方です。それだけは覚えていてください』と」
蒼介はその言葉を繰り返すように、しばらく黙った。
「それだけは、という言い方は、他のことでは味方でいられないかもしれない、という含みがある」
「そう読んだ」
「追い詰めるな」と蒼介は言った。「まだ」
「わかっている」
「もし鈴葉が榊の手駒として使われているとしても、本人が望んでそうなっているとは限らない。脅されているか、騙されているか、あるいは守りたい何かがあるか」
朱音は蒼介を見た。
「なぜそこまで考える」
「お前の侍女だからだ」と蒼介は言った。「お前が大切にしている人間を、俺も粗雑に扱いたくない」
その言葉は、思いがけず、朱音の胸のどこかに刺さった。
刺さった場所が、どこなのか、うまく言えなかった。
「一つ、聞いてもいいか」と朱音は言った。
「何だ」
「あなたは、この先どうしたいと思っている」
蒼介は少し考えてから、「どういう意味だ」と返した。
「この諜報の先に、何を望んでいるのかということだ。榊を暴いて、黒幕を突き止めて、それから」
「戦を止めたい」と蒼介は言った。すぐに、迷いなく。「牙嶋と霞廻の戦を止めたい。霞廻の民が死ぬのも、牙嶋の兵が死ぬのも、俺には関係のないことのように思えない」
「あなたは牙嶋の人間だ」
「そうだ。しかし俺の兄が手柄のために始めた戦で、霞廻の百姓が焼け出される理由が、俺にはわからない」
朱音は、その言葉の重さを測った。
理想論に聞こえなくもなかった。しかし蒼介の声には、演じているものがなかった。ただ、長い間抱えてきた疑問を、ようやく口に出しているような、そういう声だった。
「私は」と朱音は言った。「霞廻を守りたい」
「わかっている」
「父がどんな取引をしていたとしても、それは変わらない」
「わかっている」と蒼介は繰り返した。「だからこそ、お前と組んでいる」
「矛盾していないか。私は霞廻を守りたい。あなたは戦を止めたい。その二つが一致するとは限らない」
「今は一致している」と蒼介は言った。「第三の者が両藩を操って戦わせているなら、その糸を断つことが、霞廻を守ることにも、戦を止めることにもなる。先のことは、先になってから考える」
「楽観的だな」
「そうかもしれない」と蒼介は素直に言った。「しかし悲観だけで動ける人間は少ない。俺は楽観を燃料にしないと、動けない性質だ」
朱音は、少しだけ笑いそうになった。
笑いそうになったことが、自分でも少し意外だった。
別れ際に、蒼介が言った。
「また三日後、同じ場所に来い」
「三日後に何かわかるか」
「榊の書状の経路を、もう少し絞れる。それと」と蒼介は少し間を置いた。「お前に渡したいものがある」
「何を」
「今は言わない。来てみればわかる」
朱音は蒼介を見た。
「信用しろということか」
「そういうことだ」
「……わかった」
朱音は立ち上がり、頭巾を被った。幕舎の入り口へ向かいながら、ふと立ち止まった。
「蒼介」
「何だ」
「あなたは、なぜ兄上に反いてまでこんなことをしている。牙嶋の家中でそれが知れれば、ただでは済まないはずだ」
蒼介はしばらく、行灯の炎を見ていた。
「兄は俺のことを、役に立たない次男だと思っている」とやがて言った。「それは正しい。俺は手柄に興味がない。領地争いに興味がない。戦場で誰かを斬ることに、何の喜びも感じない。そういう人間は、この時代には役に立たない」
「それでも、今夜ここにいる」
「役に立てることがあるなら、役に立ちたい」と蒼介は言った。「ただし、自分が正しいと思える形で」
朱音は、その言葉を胸の中で一度繰り返した。
「……同じだ」と言った。「私も同じことを思っている」
蒼介は朱音を見た。今夜初めて、少し驚いたような顔をした。
「そうか」
「ただし私は、自分が正しいと思えるかどうかよりも先に、動かなければならないことがある」
「父君のことか」
「そうだ」
蒼介は頷いた。何も言わなかった。言わないことが、朱音には却って響いた。
「三日後に来る」と朱音は言った。
「待っている」
帰り道、霧がまた濃くなっていた。
足元しか見えない道を、朱音は迷わず歩いた。体が覚えているからだ。この道は、子供の頃から何度も歩いた。霞廻の山道は、目を閉じても歩ける。
しかし今夜は、行き先が少し変わった気がした。
榊 嶺右衛門。
第三の大名。
父の取引。
鈴葉の沈黙。
それらが、霧の中でゆっくりと輪郭を結び始めていた。まだはっきりとは見えない。しかし、見えてくる予感だけが、確かに胸の中にあった。
朱音は立ち止まり、一度だけ深く息を吸った。
夜の山の空気は、冷たく、湿っていた。
杉の香りがした。
霞廻の、においだった。
守りたいと思った。
それだけは、何一つ揺らいでいなかった。
── 第四章、了







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