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火と花の狭間に 第四章「二度目の夜」|第三の黒幕と揺らぐ信頼、朱音と蒼介が掴んだ新たな真実

2026年6月30日火曜日

サブカルチャー ブログ 生成AI

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火と花の狭間に

第四章 二度目の夜

 約束の夜が来た。

 朱音は今度、水桶を持たなかった。

 持っていく必要がなかった。蒼介が陣の外周に、朱音だけが気づけるしるしを残しておくと言っていた。杉の木の根元に、白い小石を三つ並べる。そこから十歩、真東へ進めば、番兵の巡回が重ならない細い隙間がある、と。

 果たして、しるしはあった。

 白い小石が、霧の中でぼんやり光っていた。

 (信じた通りだった)

 朱音は十歩、東へ踏み込んだ。


 幕舎の小部屋には、また行灯が一つ灯っていた。

 蒼介は朱音が来るのを分かっていたように、文机の前に座っていた。前回と同じ場所に、前回と同じ姿勢で。ただ今夜は、茶ではなく、小さな椀が二つ置いてあった。

 「粟の雑炊だ」と蒼介は言った。「陣の料理番が夜食に作ったものを分けてもらった。毒は入っていない」

 「毎回言わなくていい」

 「毎回確かめたそうな顔をしているから」

 朱音は椀を見た。湯気が立っている。温かいものを、ここ二日ほどまともに食べていなかった。椀を受け取り、一口すすった。

 薄い味だった。しかし、腹に染みた。

 「調べたか」と蒼介は言った。

 「調べた」

 「俺もだ」

 「どちらから話す」

 「お前から聞く」

 朱音は椀を膝に置いた。

 「父の書斎に、小箱があった。牙嶋の当主からの書状と、父の返書の草稿が入っていた。内容は——北の守りを一夜空ける代わりに、霞廻の存続を三年保証する、というものだった」

 蒼介は黙って聞いていた。

 「父は私にそれを話さなかった。密書の存在も、取引の中身も。ただ私を遣わして、巻物を持ち帰れと言った」

 「……お前を遣わした本当の理由が、巻物ではない可能性がある」

 「わかっている」

 「考えたか。なぜ父君はお前を使ったのか」

 「一つは、私が信頼できるから。もう一つは」と朱音は言って、一拍置いた。「私に、何かを見させたかったのかもしれない」

 蒼介の目が、わずかに動いた。

 「見させたかった、とは」

 「父はあの書斎に私が入れないとは思っていない。子供の頃から、あの部屋は私の庭のようなものだった。小箱を隠すなら、もっと別の場所にするはずだ。しかし引き出しの奥に、鍵一つで置いてあった」

 「……わざと、見つけさせた」

 「確かめようがない。しかし、そう考えると辻褄が合う」

 蒼介はしばらく黙っていた。行灯の炎が揺れた。

 「父君は、お前に真実を知ってほしかったのかもしれない。口では言えないまま」

 「あるいは」と朱音は言った。「私を試していた。どこまで動けるか」

 「どちらだと思う」

 「どちらでも、今は同じことだ」と朱音は答えた。「父が牙嶋と取引をしたのは事実だ。しかしその取引を仕組んだのが誰なのかが、まだわからない」

 「その話に続く」と蒼介は言い、膝の前に一枚の紙を広げた。「俺が調べたことだ」


 紙には、いくつかの名前が書いてあった。

 「牙嶋の家中に、暗部頭と呼ばれる男がいる。名は榊 嶺右衛門(さかき みねえもん)という。表向きは兵站を管理する役人だが、実際には藩内外の諜報を仕切っている。密書のやり取りも、この男が間に立っている可能性が高い」

 「それは以前も話した」

 「ここからが新しい話だ」と蒼介は言った。「榊は、牙嶋の当主の命だけで動いていない。もう一人、別の主がいる」

 朱音は、蒼介の目を見た。

 「誰だ」

 「まだ名前はわかっていない。しかし榊が別ルートで書状を送っている相手がいることは、榊の部下の一人から聞き出した。その部下は、『遠国の大名』と言った」

 「遠国の」

 「牙嶋とも霞廻とも別の、第三の勢力が、この戦を外から動かしている可能性がある」

 朱音は、しばらくその言葉を転がした。

 戦国の世に、漁夫の利を狙う者がいることは珍しくない。二つの藩が消耗し合えば、その隙に第三の者が入り込める。しかしそれを仕組むには、両藩の内部に手を伸ばせるだけの力と、情報網が必要だ。

 「榊は誰に雇われている」

 「それを調べている。もう少し時間がいる」

 「部下から聞き出したとは、どういう手を使った」

 蒼介は少し間を置いた。

 「酒だ」と言った。「酒を飲ませて、話させた」

 「拷問ではなく?」

 「拷問で得た話は信じない。痛みに耐えられなくなれば、人は相手が聞きたいことを言う。それは情報ではなく、苦しさから逃げるための言葉だ」

 朱音はその答えを聞いて、蒼介という人間の輪郭が少し明確になった気がした。

 戦を嫌うと言っていた。それは言葉だけではないようだった。

 「鈴葉に、父の書斎への出入り人を調べさせている」と朱音は言った。「榊と霞廻が繋がっているとすれば、使った者がいるはずだ」

 「鈴葉というのは」

 「私の侍女だ。幼なじみでもある」

 「信頼できるか」

 朱音は一拍、止まった。

 「……これまでは、疑ったことがなかった」

 「今は?」

 「わからない」と正直に言った。「一昨日、妙なことを言った。『私はあかね様の味方です。それだけは覚えていてください』と」

 蒼介はその言葉を繰り返すように、しばらく黙った。

 「それだけは、という言い方は、他のことでは味方でいられないかもしれない、という含みがある」

 「そう読んだ」

 「追い詰めるな」と蒼介は言った。「まだ」

 「わかっている」

 「もし鈴葉が榊の手駒として使われているとしても、本人が望んでそうなっているとは限らない。脅されているか、騙されているか、あるいは守りたい何かがあるか」

 朱音は蒼介を見た。

 「なぜそこまで考える」

 「お前の侍女だからだ」と蒼介は言った。「お前が大切にしている人間を、俺も粗雑に扱いたくない」

 その言葉は、思いがけず、朱音の胸のどこかに刺さった。

 刺さった場所が、どこなのか、うまく言えなかった。


 「一つ、聞いてもいいか」と朱音は言った。

 「何だ」

 「あなたは、この先どうしたいと思っている」

 蒼介は少し考えてから、「どういう意味だ」と返した。

 「この諜報の先に、何を望んでいるのかということだ。榊を暴いて、黒幕を突き止めて、それから」

 「戦を止めたい」と蒼介は言った。すぐに、迷いなく。「牙嶋と霞廻の戦を止めたい。霞廻の民が死ぬのも、牙嶋の兵が死ぬのも、俺には関係のないことのように思えない」

 「あなたは牙嶋の人間だ」

 「そうだ。しかし俺の兄が手柄のために始めた戦で、霞廻の百姓が焼け出される理由が、俺にはわからない」

 朱音は、その言葉の重さを測った。

 理想論に聞こえなくもなかった。しかし蒼介の声には、演じているものがなかった。ただ、長い間抱えてきた疑問を、ようやく口に出しているような、そういう声だった。

 「私は」と朱音は言った。「霞廻を守りたい」

 「わかっている」

 「父がどんな取引をしていたとしても、それは変わらない」

 「わかっている」と蒼介は繰り返した。「だからこそ、お前と組んでいる」

 「矛盾していないか。私は霞廻を守りたい。あなたは戦を止めたい。その二つが一致するとは限らない」

 「今は一致している」と蒼介は言った。「第三の者が両藩を操って戦わせているなら、その糸を断つことが、霞廻を守ることにも、戦を止めることにもなる。先のことは、先になってから考える」

 「楽観的だな」

 「そうかもしれない」と蒼介は素直に言った。「しかし悲観だけで動ける人間は少ない。俺は楽観を燃料にしないと、動けない性質だ」

 朱音は、少しだけ笑いそうになった。

 笑いそうになったことが、自分でも少し意外だった。


 別れ際に、蒼介が言った。

 「また三日後、同じ場所に来い」

 「三日後に何かわかるか」

 「榊の書状の経路を、もう少し絞れる。それと」と蒼介は少し間を置いた。「お前に渡したいものがある」

 「何を」

 「今は言わない。来てみればわかる」

 朱音は蒼介を見た。

 「信用しろということか」

 「そういうことだ」

 「……わかった」

 朱音は立ち上がり、頭巾を被った。幕舎の入り口へ向かいながら、ふと立ち止まった。

 「蒼介」

 「何だ」

 「あなたは、なぜ兄上に反いてまでこんなことをしている。牙嶋の家中でそれが知れれば、ただでは済まないはずだ」

 蒼介はしばらく、行灯の炎を見ていた。

 「兄は俺のことを、役に立たない次男だと思っている」とやがて言った。「それは正しい。俺は手柄に興味がない。領地争いに興味がない。戦場で誰かを斬ることに、何の喜びも感じない。そういう人間は、この時代には役に立たない」

 「それでも、今夜ここにいる」

 「役に立てることがあるなら、役に立ちたい」と蒼介は言った。「ただし、自分が正しいと思える形で」

 朱音は、その言葉を胸の中で一度繰り返した。

 「……同じだ」と言った。「私も同じことを思っている」

 蒼介は朱音を見た。今夜初めて、少し驚いたような顔をした。

 「そうか」

 「ただし私は、自分が正しいと思えるかどうかよりも先に、動かなければならないことがある」

 「父君のことか」

 「そうだ」

 蒼介は頷いた。何も言わなかった。言わないことが、朱音には却って響いた。

 「三日後に来る」と朱音は言った。

 「待っている」


 帰り道、霧がまた濃くなっていた。

 足元しか見えない道を、朱音は迷わず歩いた。体が覚えているからだ。この道は、子供の頃から何度も歩いた。霞廻の山道は、目を閉じても歩ける。

 しかし今夜は、行き先が少し変わった気がした。

 榊 嶺右衛門。

 第三の大名。

 父の取引。

 鈴葉の沈黙。

 それらが、霧の中でゆっくりと輪郭を結び始めていた。まだはっきりとは見えない。しかし、見えてくる予感だけが、確かに胸の中にあった。

 朱音は立ち止まり、一度だけ深く息を吸った。

 夜の山の空気は、冷たく、湿っていた。

 杉の香りがした。

 霞廻の、においだった。

 守りたいと思った。

 それだけは、何一つ揺らいでいなかった。


── 第四章、了

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