火と花の狭間に
第一章 霞の中の密使
夜霧が濃かった。
朱音は杉林の縁に身を潜め、眼下に広がる敵陣をじっと見つめた。篝火が点々と並び、その橙色の揺らめきが、霞廻の山々を照らしている。あの光の数だけ、槍がある。あの光の数だけ、自分を殺すつもりの男たちがいる。
怖くないと言えば嘘になる。
だが今夜の朱音に、怖いと感じている暇はなかった。
「行きます」
小声で告げると、背後の暗がりから鈴葉が小さく息を飲む気配がした。
「あかね様……本当に、一人で?」
「二人で動けば二倍、目につく」
それだけ言って、朱音は頭巾の端を結び直した。身につけているのは農家の男の古着だ。帯は細く、刀は一本だけ、脇差ほどの長さのものを背に隠している。鏡があれば、どこにでもいる若い下男にしか見えないだろう。そう計算して、三日かけて用意した。
「もし夜明けまでに戻らなければ」と朱音は言いかけて、止めた。
続きを鈴葉に言わせたくなかった。
「戻ります」と言い直した。「必ず」
鈴葉は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。朱音はそれ以上振り返らず、霧の中へ踏み出した。
牙嶋の陣は、思ったより整然としていた。
乱雑な軍というのは、だいたい夜に本性を現す。番兵が酒を飲み、火の番が眠り、物見の間隔が乱れる。霞廻の砦でもそうだった。しかし牙嶋の陣は、篝火の間隔が均等で、番兵の歩く速度すら一定に見えた。
(軍の質が高い。あるいは、厳しい軍律か)
どちらにせよ、厄介だと朱音は思った。
陣の外周を静かに回りながら、兵たちの動きを読む。番兵が角を曲がるたびに七十ほど数える。次の番兵が現れるまで、百四十ある。その隙間が、朱音に与えられた時間のすべてだ。
目当ては軍議の天幕、陣の中央やや奥、大将旗の近くに張られているはずの幕舎だった。父・典之進から渡された手書きの略図には、そう記してある。「兵站の記録と、春の進軍路が書かれた巻物がある。それを持ち帰れ」と父は言った。落ち着いた声で、まるで朝餉の献立を告げるように。
朱音は今でも、その声の静けさが引っかかっている。
しかし今は考えるときではない。
隙間を縫って、するりと陣の中へ入り込んだ。
兵たちの間を通り抜けるのは、存外難しくなかった。
俯いて歩けば、誰も顔を見ない。手に空の水桶でも持っていれば、水汲みの雑用係にしか見えない。人間というのは、怪しいと思わない限り、怪しいものを怪しいと気づかない生き物だ。それもまた、父に教わったことだった。
幕舎まで、あと二十歩ほど。
そのとき、朱音の足が止まった。
幕舎の入り口に、人が立っていた。
番兵ではなかった。番兵なら巡回する。しかしその人影は、柱に軽く肩をもたせかけたまま、夜空を見上げていた。若い。篝火に照らされた横顔は、朱音と然して歳の変わらない男のものだ。装束は質素だが、腰の大刀の鞘が鈍く光っている。手練れの証拠だ。
朱音は立ち止まったまま、視線を逸らした。
気づかれていない。通り過ぎれば、それで済む。
そう思ったとき、男がふいに口を開いた。
「水桶が空だな」
低い、しかし穏やかな声だった。
朱音は一瞬だけ、全身が冷たくなるのを感じた。けれど表情には出さなかった。出さないことなら、幼い頃から得意だった。
「井戸を探していたところで」と、できるだけ平坦な声で答えた。
男は朱音を見た。篝火の揺れる中で、その目は妙に落ち着いていた。観察している、と朱音は思った。品定めではなく、もっと静かな種類の、観察。
「井戸は東だ」と男は言った。「ただ」
一拍、置いた。
「この陣に、水汲みの下男は三人しかいない。お前の顔に、見覚えがない」
沈黙が落ちた。
篝火が揺れた。どこか遠くで、馬が嘶いた。
朱音は静かに、脇差に手をかけた。男の目が、その動きを追った。しかし抜かなかった。抜こうとしなかった。ただ朱音を見ていた。まるで、どうするかを、委ねるように。
「斬るつもりなら」と男は言った。「もう少し早く手を動かしたほうがいい」
朱音は手を止めた。
男は柱から肩を離し、一歩だけ前へ出た。
「俺は牙嶋 蒼介という。次男だから、捕まえてもたいした身代金にはならないぞ」
そう言って、わずかに笑った。
朱音は、その笑い方が不思議だと思った。敵を前にした笑い方ではなかった。もっと別の、疲れたような、しかしどこかほっとしたような笑い方だった。まるで、こういう夜を、ずっと待っていたかのような。
「……霞廻朱音」
気づいたら、名を言っていた。
蒼介はしばらく黙って朱音を見た。それから、もう一度だけ笑った。
「そうか」と言った。「藩主の娘が、自ら来たか」
その声には、責めるものも、嘲るものもなかった。
ただ、どこか、悲しそうだった。
── 第一章、了







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