火と花の狭間に
第三章 父の書斎
霞廻の朝は、霧から始まる。
盆地に抱かれたこの藩は、夜が明けてもしばらくは白い帳の中にある。朱音は子供の頃、その霧を嫌いだった。視界が閉じて、世界が狭くなる気がした。しかし父は「霞廻の霧は、この藩を守っている」と言った。「霧の中では、敵も道に迷う」と。
今朝は、その言葉が違う色に見えた。
霧は、隠すためのものでもある。
朱音が霞廻の砦に戻ったのは、夜明けの少し前だった。
鈴葉は門の脇でうとうとしていた番兵をそっと回避する手順を熟知していた。二人はいつものように、台所の裏口から忍び込んだ。板の間の軋みを避けながら廊下を渡り、朱音の部屋に戻る。鈴葉は何も聞かなかった。聞きたそうな顔は隠せていなかったが、朱音が話したくないときに話させようとしない分別が、彼女にはあった。
それが今夜は、少し辛かった。
話してしまいたかった。しかし話してしまえば、疑惑が言葉になる。言葉になったものは、取り消せない。
朱音は夜明けまで眠れなかった。
父の書斎に入ったのは、昼過ぎのことだった。
典之進は、この刻限にはたいてい政務を終え、書斎で書き物をしている。今日も例外ではなかった。朱音が障子を開けると、父は顔を上げて、いつものように目を細めた。
「朱音か。どうした」
「少し、お話があります」
典之進は筆を置いた。五十近い歳になっても、父の背筋は真っ直ぐだ。長い戦乱の時代を生き抜いてきた体の、どこにも無駄がない。
「座れ」
朱音は父の向かいに座った。文机の上には、書きかけの書状があった。宛名は見えなかった。
「父上は」と朱音は言った。「最近、何か気になることはありませんか」
典之進は少し考えてから、「漠然としているな」と言った。「もう少し絞れるか」
「藩の内外に、不審な動きはないかということです」
「それは、昨夜の首尾を問うているのか」
朱音は一瞬、息が止まった。
しかし父の顔は穏やかだった。咎めているのではなく、確認しているように見えた。
「……巻物は、手に入りませんでした」
「そうか」
父はそれだけ言った。落胆した様子もなく、怒った様子もなかった。ただ、静かに「そうか」と言った。
(また、この静けさだ)
「父上」
「何だ」
「なぜ私を遣わしたのですか」
典之進は少し間を置いてから、答えた。
「お前しかいなかった」
「他に密偵はいます。藤九郎でも、市之丞でも」
「あの二人では、返ってこられない」
「私なら返ってこられると」
「そう信じている」と父は言った。「お前は子供の頃から、帰り道を必ず見つける」
朱音は、父の目を見た。
嘘をついている目ではなかった。しかし、全てを話している目でもなかった。
「父上」
「何だ」
「牙嶋との間に、私の知らない話はありませんか」
沈黙が来た。
今度は父の沈黙だった。書斎の中で、炭が爆ぜる音がした。縁側の向こうで、雀が鳴いた。
典之進はゆっくりと、朱音を見た。
「何を聞いた」
「何も」と朱音は答えた。嘘だったが、今はまだ、本当のことを言う段階ではないと思った。「ただ、牙嶋の陣はよく整っていました。内部に協力者がいなければ、あれほど精密な布陣はできません」
父はしばらく朱音を見ていた。
それから、静かに言った。
「霞廻を守るためなら、俺はどんな手でも使う」
それだけだった。
説明もなく、謝罪もなく、ただその一言だけ。
朱音は頷いた。頷くしかなかった。
「わかりました」と言って、立ち上がった。
障子に手をかけたとき、父が後ろから言った。
「朱音」
「はい」
「気をつけろ」
振り返ると、父は既に書き物に戻っていた。
「何に、ですか」と朱音は聞いた。
「自分の感情に」と父は言った。筆を動かしながら、静かに。「頭で考えたことと、心が感じることが、一致しなくなる時がある。そういう時は、必ず判断が鈍る」
朱音は、その言葉をしばらく聞いていた。
「……肝に銘じます」
障子を閉めた。
廊下に出ると、急に足が重くなった気がした。
鈴葉は朱音の部屋で、着物の繕いをしていた。
朱音が戻ってきたのを見て、針を止めた。何か言いたそうに口を開きかけ、また閉じた。
「鈴葉」と朱音は言った。「一つ、頼みたいことがある」
「何なりと」
「父上の書斎に出入りする者を、ここ一月ほど、さかのぼって思い出せるか。使用人でも、武士でも、客人でも」
鈴葉は少し考えてから、「やってみます」と言った。「何かあったのですか」
「念のための確認だ」
「……あかね様」
「何だ」
鈴葉は繕い物を膝の上に置き、朱音を真っ直ぐに見た。珍しい目つきだった。いつもの明るい鈴葉ではなく、もっと真剣な、何かを決心したような顔だった。
「私は、あかね様の味方です。それだけは、覚えていてください」
朱音は、その言葉が少し引っかかった。
「それだけは、というのは、どういう意味だ」
鈴葉は一瞬、目を逸らした。ほんの一瞬だったが、朱音は見逃さなかった。
「いいえ」と鈴葉は言った。「ただ、何があっても、という意味です」
朱音はしばらく鈴葉を見ていた。
(何かを知っている)
その直感が、胸の中で静かに灯った。しかし今は追い詰める段階ではない。追い詰めれば、鈴葉は口を閉じる。
「わかった」と朱音は言った。「頼む」
その夜、朱音は父の書斎に再び忍び込んだ。
典之進は夕餉の後、政務に戻るのが習慣だが、夜の四つ(午後十時頃)を過ぎると必ず奥の間に下がる。その後の書斎は、無人になる。
行灯を持ち込み、文机の引き出しを一つずつ開けた。
公文書、書状の控え、地図、藩内の家系図。どれも朱音が知っているものだった。
三つ目の引き出しに、鍵のかかった小箱があった。
朱音はそれを見たとき、手が止まった。
父の書斎に、鍵のかかったものがあるとは知らなかった。子供の頃からこの部屋に自由に出入りしていたのに、この小箱を見た記憶がない。最近、しまわれたものかもしれない。
朱音は小箱を手に取った。
軽い。中身はそれほど多くない。
鍵は見当たらなかった。しかし朱音は幼い頃、父の古い文箱の鍵が折れたとき、簪の先で開けてみせたことがある。父は呆れた顔で「お前は何者だ」と言った。あの頃は笑い話だった。
今夜は笑えなかった。
簪の先を差し込み、少し力を加えた。かちり、と音がして、箱が開いた。
中には、二枚の文書があった。
一枚は、朱音も知っている体裁の書状だ。藩同士の取り決めを記したもの、と一見してわかる。しかし差出人の名を見て、朱音の手が止まった。
牙嶋。
牙嶋の当主の名が、そこにあった。
内容を読んだ。
読み進めるにつれ、行灯の灯りが小さくなった気がした。実際には変わっていないはずなのに、視界の端が暗くなっていくように感じた。
書状にはこうあった。
——霞廻の北の守りを一夜空けること。対価として、霞廻の存続を三年間保証する。
もう一枚は、返書の草稿だった。
筆跡は、父のものだった。
朱音は二枚の文書を、しばらく膝の上に持ったまま、動けなかった。
怒りが来ると思っていた。
しかし来たのは、もっと静かなものだった。
霞廻を守るためなら、どんな手でも使う——今日の昼間、父が言った言葉が、耳の奥で繰り返された。
(どんな手でも、か)
自分の娘を敵の陣に送り込むことも。
その娘が帰ってこられなくなることも、計算の内に入れた上で。
朱音は文書を元の通りに折り、小箱に戻した。鍵をかけ、引き出しの奥にしまった。
行灯を消して、書斎を出た。
廊下は暗かった。月が雲に隠れていた。
朱音は廊下の柱に、額をそっと当てた。
冷たかった。
木の、冷たさ。
それが今夜、一番まともなものに感じた。
明後日まで、あと一日ある。
朱音はその夜、不思議なほど静かに眠った。泣きも、怒りも、しなかった。ただ目を閉じると、すぐに意識が遠くなった。
夢を見た。
幼い頃の夢だった。
父に連れられて、霞廻の北の山に登ったときのことだ。頂上から見ると、藩全体が霧の中に沈んでいた。父は「きれいだろう」と言った。朱音は「怖い」と言った。全部が消えてしまいそうだと思ったから。
父は笑った。
「消えないよ」と言った。「霧の中にあっても、山は山のまま、川は川のままだ。見えないことと、なくなることは、違う」
夢の中でも、父の声は穏やかだった。
朱音は夢の中で、子供の手で父の袖を握っていた。
握ったまま、眠った。
── 第三章、了







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