火と花の狭間に
第二章 幕舎の夜
返す言葉が、なかった。
朱音はふつう、沈黙を武器にする。黙っていれば相手は喋る。喋れば隙が生まれる。それが父の教えだった。しかし蒼介の「悲しそうだった」という表情の前では、その計算がどこかへ消えてしまった。
「捕らえるか」と朱音は言った。挑むように、しかしできるだけ静かに。
蒼介は少し考えてから、首を横に振った。
「捕らえてどうする」
「人質にすれば、霞廻は動けなくなる」
「動けなくなった藩を攻めても、面白くない」
朱音は、その言葉の意味を測った。強がりではなさそうだった。本気で、そう思っているように聞こえた。
「では、斬るか」
「斬ってどうする」
「敵の密偵を仕留めれば、手柄になる」
「手柄はいらない」
また沈黙が来た。今度は朱音のほうが、その重さに耐えられなかった。
「……何がしたい」
蒼介は答える前に、幕舎の外をぐるりと見渡した。番兵の巡回が遠ざかっていくのを確かめてから、静かに言った。
「話がしたい」
幕舎の中は、朱音が想像していたものとは違っていた。
軍議の記録や、武具が整然と並んでいるのだろうと思っていた。しかし蒼介が案内した小部屋は、むしろ書庫に近かった。巻物が壁際にいくつも積まれ、文机の上には読みかけの書物が開いたままになっている。篝火の代わりに、行灯がひとつ、小さく灯っていた。
「座れ」と蒼介は言い、自分も文机の前に胡坐をかいた。
「勧めた相手の名前も聞かずに座るほど、私は間抜けではない」
「名は言った。牙嶋蒼介だ」
「名だけでは人はわからない」
蒼介はしばらく朱音を見てから、また少しだけ笑った。
「なるほど、藩主の娘というのは伊達ではないな」と言って、行灯の傍らにあった茶碗をひとつ、朱音のほうへ押し出した。「冷えているが、茶だ。毒は入っていない。入れる理由がない」
「理由がなければ毒を入れない人間が、世の中にどれだけいると思う」
「俺はそういう人間だ」
朱音は茶碗を見た。湯気はない。確かに冷えている。蒼介は自分の分を先に飲んだ。朱音はそれを見届けてから、ゆっくりと茶碗を手に取った。
(ここで毒を使うような男ではない。少なくとも、今夜は)
それは直感だったが、朱音はこの種の直感を信じることにしていた。外れたことがなかった。外れれば死ぬだけだという覚悟も、幼い頃から持っていた。
茶は、思いがけず、きちんと美味かった。
「霞廻の略図を持っているだろう」と蒼介は言った。「父君から渡された、軍議資料のありかを示す略図だ」
朱音は表情を変えなかった。
「なぜそれを知っている」
「俺が書いたからだ」
静寂が、重く落ちた。
行灯の炎が、わずかに揺れた。
「どういうことか」
蒼介は答える前に、膝の上で手を組んだ。長い指だ、と朱音は場違いなことを思った。武人の手ではなく、書き物をする者の手に似ている。
「牙嶋の陣に、密書が届いた。一月前のことだ。差出人の名はなかったが、文体でわかった。霞廻の誰かが書いたものだ。内容はこうだ——『娘を遣わす。軍議の資料を持ち帰らせよ。その代わり、霞廻の北の守りを一夜だけ空ける』」
朱音は、何かが胸の中で崩れるのを感じた。
崩れたのは、怒りではなかった。
もっと静かな、しかしずっと深いところにある、何かだった。
「……父が」
「俺も最初は信じなかった。しかし筆跡と、使われた紙の産地と、印の形を調べた。霞廻の当主が使う印と、一致した」
「なぜ、私に教える」
蒼介はしばらく黙った。行灯の灯りの中で、その横顔は妙に疲れて見えた。篝火の外で見たときよりも、年を取って見えた。
「俺は、この戦が嫌いだ」
唐突な言葉だった。
「嫌いとは」
「そのままの意味だ。牙嶋が霞廻を攻める理由は、領地でも資源でもない。兄が手柄を立てたいからだ。家老が功名を欲しいからだ。そのために、どちらの藩の民も死ぬ。俺はそれが、ずっと嫌だった」
朱音は、蒼介を見た。
嘘をついている様子はなかった。しかし嘘でないとしても、この男の言葉を信じていいかどうかは、また別の話だ。
「それで、私に何をしろと言う」
蒼介は朱音を真っ直ぐに見た。
「密書を書いた者を、共に突き止めてほしい」
「なぜ共に」
「お前は父君を疑い始めている。俺は牙嶋の内側を疑っている。どちらの側も、単独では限界がある。それに」と蒼介は一呼吸置いた。「霞廻の当主が本当に密書を書いたとすれば、その目的は何だ? 娘を危険に晒して、何を得ようとしている?」
朱音は、答えられなかった。
それが、今夜一番、怖かった。
「信じろと言っているわけではない」と蒼介は続けた。「ただ、考えてほしい。お前が今夜手に入れようとしていた巻物——軍議の資料だが、それはここにある」
蒼介は立ち上がり、壁際の棚から細長い桐箱を取り出した。朱音の前に置く。
「開けろ」
朱音は箱を見た。罠かもしれない。開ければ何かが起きるかもしれない。しかし蒼介の目は、試しているのではなく、促しているように見えた。
朱音は箱を開けた。
中には確かに巻物があった。紐を解いて広げると、春の進軍路が丁寧に書かれている。霞廻の北側を迂回し、山越えで南から攻め込む経路だ。霞廻の防備の薄い箇所を、正確に知っている者が書いたことがわかった。
そして、端の隅に、朱音はあるものを見た。
霞廻の当主印だ。
米粒ほどの大きさで、しかし鮮明に押されている。
「……これは」
「誰かが、霞廻の内側から情報を流している証拠だ」と蒼介は言った。「それが当主本人なのか、当主の名を騙っている者なのか、俺にはわからない。しかしお前なら、わかるかもしれない」
朱音はしばらく、その印を見ていた。
父の印だ。
朱音が物心ついた頃からずっと、あの文机の引き出しにしまわれていた、あの印だ。
「……一つ、聞く」
朱音は顔を上げた。
「もし私が断ったら」
蒼介は少し考えてから、言った。
「今夜のことは忘れる。お前を陣の外まで送り届ける。巻物はくれてやる。父上に渡せばいい」
「それで、あなたに何の得がある」
「ない」と蒼介はあっさりと言った。「だから頼んでいる」
朱音は、長い間、黙っていた。
行灯の炎が揺れた。外では番兵が歩いていた。どこかで梟が鳴いた。霞廻の山々の形が、夜霧の向こうにうっすらと見えた。あの山の麓に、鈴葉が待っている。あの山の中に、自分が守ろうとしてきた藩がある。
「一つだけ、条件がある」
朱音は言った。
蒼介は黙って続きを待った。
「私を騙せば」と朱音は静かに言った。「その刀で斬る。その覚悟があるなら、話に乗る」
蒼介はしばらく朱音を見た。それから、ゆっくりと頷いた。
「構わない」
「誓えるか」
「誓う」
朱音は立ち上がった。
「では、明後日の夜、もう一度ここに来る。それまでに、父の周辺を調べる。あなたは、牙嶋の内部を探れ」
「わかった」
「それから」と朱音は桐箱を蒼介に返した。「巻物はいらない。持っていても、今の私には毒にしかならない」
蒼介は黙って箱を受け取った。
朱音は頭巾を被り直し、幕舎の入り口へ向かった。そこで足を止め、振り返らずに言った。
「あなたは、なぜ最初に声をかけた。黙って見逃せば、それで済んだはずだ」
しばらく、間があった。
「お前が、怖くなさそうだったから」
朱音は、その答えが少し意外だった。
「怖くなさそうだったから、声をかけるのか」
「怖そうな人間に声をかけるのは、戦いの始まりだ。お前は怖くなさそうだった。だから話ができると思った」
「それは褒めているのか、馬鹿にしているのか」
「どちらでもない」と蒼介は言った。「ただの、感想だ」
朱音は何も言わなかった。
霧の中へ、静かに踏み出した。
背後で、幕舎の灯りが消えた。
杉林の縁まで戻ると、鈴葉が飛びついてきた。
「あかね様! 遅いから、もう——」と言いかけて、朱音の顔を見た。「……どうかなさいましたか」
「何でもない」
「いいえ、何かあります。そのお顔は、何でもないお顔ではありません」
朱音は空を見上げた。霧が少し晴れ、星がいくつか見えていた。
「鈴葉」
「はい」
「父上のことを、どう思う」
鈴葉は少し驚いたように黙った。それから、慎重に言った。
「……藩主様のことは、尊敬しております。朱音様のことを、誰よりも大切にしておられる方だと」
「そうだな」
「それが、どうかなさいましたか」
朱音はしばらく星を見ていた。
父の印が、脳裏に焼きついていた。
米粒ほどの大きさの、あの印が。
「帰ろう」と朱音は言った。「話は、歩きながらする」
鈴葉は頷き、朱音の隣に並んだ。
二人は霧の中を、霞廻へ向けて歩き始めた。
朱音の胸の中には、巻物も手に入れられなかった夜のことよりも、ずっと大きなものが、静かに沈んでいた。
父が何かを隠している。
そして、敵の陣の中に、父の印があった。
この二つの事実の間に何があるのか、朱音にはまだわからなかった。
わかっているのはひとつだけだ。
明後日の夜、また蒼介に会いに行く。
それが正しい判断かどうかは、まだわからなかった。しかし、正しいかどうかよりも先に、そうしなければならないと、体が知っていた。
父の真実を、知りたかった。
知りたくない気持ちよりも、ほんの少しだけ、知りたい気持ちのほうが、大きかった。
── 第二章、了







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