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【火と花の狭間に 第二章】幕舎の夜|敵将との密会、父の裏切り疑惑が動き出す戦国和風ファンタジー

2026年6月24日水曜日

サブカルチャー ブログ 生成AI

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火と花の狭間に

第二章 幕舎の夜

 返す言葉が、なかった。

 朱音はふつう、沈黙を武器にする。黙っていれば相手は喋る。喋れば隙が生まれる。それが父の教えだった。しかし蒼介の「悲しそうだった」という表情の前では、その計算がどこかへ消えてしまった。

 「捕らえるか」と朱音は言った。挑むように、しかしできるだけ静かに。

 蒼介は少し考えてから、首を横に振った。

 「捕らえてどうする」

 「人質にすれば、霞廻は動けなくなる」

 「動けなくなった藩を攻めても、面白くない」

 朱音は、その言葉の意味を測った。強がりではなさそうだった。本気で、そう思っているように聞こえた。

 「では、斬るか」

 「斬ってどうする」

 「敵の密偵を仕留めれば、手柄になる」

 「手柄はいらない」

 また沈黙が来た。今度は朱音のほうが、その重さに耐えられなかった。

 「……何がしたい」

 蒼介は答える前に、幕舎の外をぐるりと見渡した。番兵の巡回が遠ざかっていくのを確かめてから、静かに言った。

 「話がしたい」


 幕舎の中は、朱音が想像していたものとは違っていた。

 軍議の記録や、武具が整然と並んでいるのだろうと思っていた。しかし蒼介が案内した小部屋は、むしろ書庫に近かった。巻物が壁際にいくつも積まれ、文机の上には読みかけの書物が開いたままになっている。篝火の代わりに、行灯がひとつ、小さく灯っていた。

 「座れ」と蒼介は言い、自分も文机の前に胡坐をかいた。

 「勧めた相手の名前も聞かずに座るほど、私は間抜けではない」

 「名は言った。牙嶋蒼介だ」

 「名だけでは人はわからない」

 蒼介はしばらく朱音を見てから、また少しだけ笑った。

 「なるほど、藩主の娘というのは伊達ではないな」と言って、行灯の傍らにあった茶碗をひとつ、朱音のほうへ押し出した。「冷えているが、茶だ。毒は入っていない。入れる理由がない」

 「理由がなければ毒を入れない人間が、世の中にどれだけいると思う」

 「俺はそういう人間だ」

 朱音は茶碗を見た。湯気はない。確かに冷えている。蒼介は自分の分を先に飲んだ。朱音はそれを見届けてから、ゆっくりと茶碗を手に取った。

 (ここで毒を使うような男ではない。少なくとも、今夜は)

 それは直感だったが、朱音はこの種の直感を信じることにしていた。外れたことがなかった。外れれば死ぬだけだという覚悟も、幼い頃から持っていた。

 茶は、思いがけず、きちんと美味かった。


 「霞廻の略図を持っているだろう」と蒼介は言った。「父君から渡された、軍議資料のありかを示す略図だ」

 朱音は表情を変えなかった。

 「なぜそれを知っている」

 「俺が書いたからだ」

 静寂が、重く落ちた。

 行灯の炎が、わずかに揺れた。

 「どういうことか」

 蒼介は答える前に、膝の上で手を組んだ。長い指だ、と朱音は場違いなことを思った。武人の手ではなく、書き物をする者の手に似ている。

 「牙嶋の陣に、密書が届いた。一月前のことだ。差出人の名はなかったが、文体でわかった。霞廻の誰かが書いたものだ。内容はこうだ——『娘を遣わす。軍議の資料を持ち帰らせよ。その代わり、霞廻の北の守りを一夜だけ空ける』」

 朱音は、何かが胸の中で崩れるのを感じた。

 崩れたのは、怒りではなかった。

 もっと静かな、しかしずっと深いところにある、何かだった。

 「……父が」

 「俺も最初は信じなかった。しかし筆跡と、使われた紙の産地と、印の形を調べた。霞廻の当主が使う印と、一致した」

 「なぜ、私に教える」

 蒼介はしばらく黙った。行灯の灯りの中で、その横顔は妙に疲れて見えた。篝火の外で見たときよりも、年を取って見えた。

 「俺は、この戦が嫌いだ」

 唐突な言葉だった。

 「嫌いとは」

 「そのままの意味だ。牙嶋が霞廻を攻める理由は、領地でも資源でもない。兄が手柄を立てたいからだ。家老が功名を欲しいからだ。そのために、どちらの藩の民も死ぬ。俺はそれが、ずっと嫌だった」

 朱音は、蒼介を見た。

 嘘をついている様子はなかった。しかし嘘でないとしても、この男の言葉を信じていいかどうかは、また別の話だ。

 「それで、私に何をしろと言う」

 蒼介は朱音を真っ直ぐに見た。

 「密書を書いた者を、共に突き止めてほしい」

 「なぜ共に」

 「お前は父君を疑い始めている。俺は牙嶋の内側を疑っている。どちらの側も、単独では限界がある。それに」と蒼介は一呼吸置いた。「霞廻の当主が本当に密書を書いたとすれば、その目的は何だ? 娘を危険に晒して、何を得ようとしている?」

 朱音は、答えられなかった。

 それが、今夜一番、怖かった。


 「信じろと言っているわけではない」と蒼介は続けた。「ただ、考えてほしい。お前が今夜手に入れようとしていた巻物——軍議の資料だが、それはここにある」

 蒼介は立ち上がり、壁際の棚から細長い桐箱を取り出した。朱音の前に置く。

 「開けろ」

 朱音は箱を見た。罠かもしれない。開ければ何かが起きるかもしれない。しかし蒼介の目は、試しているのではなく、促しているように見えた。

 朱音は箱を開けた。

 中には確かに巻物があった。紐を解いて広げると、春の進軍路が丁寧に書かれている。霞廻の北側を迂回し、山越えで南から攻め込む経路だ。霞廻の防備の薄い箇所を、正確に知っている者が書いたことがわかった。

 そして、端の隅に、朱音はあるものを見た。

 霞廻の当主印だ。

 米粒ほどの大きさで、しかし鮮明に押されている。

 「……これは」

 「誰かが、霞廻の内側から情報を流している証拠だ」と蒼介は言った。「それが当主本人なのか、当主の名を騙っている者なのか、俺にはわからない。しかしお前なら、わかるかもしれない」

 朱音はしばらく、その印を見ていた。

 父の印だ。

 朱音が物心ついた頃からずっと、あの文机の引き出しにしまわれていた、あの印だ。

 「……一つ、聞く」

 朱音は顔を上げた。

 「もし私が断ったら」

 蒼介は少し考えてから、言った。

 「今夜のことは忘れる。お前を陣の外まで送り届ける。巻物はくれてやる。父上に渡せばいい」

 「それで、あなたに何の得がある」

 「ない」と蒼介はあっさりと言った。「だから頼んでいる」

 朱音は、長い間、黙っていた。

 行灯の炎が揺れた。外では番兵が歩いていた。どこかで梟が鳴いた。霞廻の山々の形が、夜霧の向こうにうっすらと見えた。あの山の麓に、鈴葉が待っている。あの山の中に、自分が守ろうとしてきた藩がある。

 「一つだけ、条件がある」

 朱音は言った。

 蒼介は黙って続きを待った。

 「私を騙せば」と朱音は静かに言った。「その刀で斬る。その覚悟があるなら、話に乗る」

 蒼介はしばらく朱音を見た。それから、ゆっくりと頷いた。

 「構わない」

 「誓えるか」

 「誓う」

 朱音は立ち上がった。

 「では、明後日の夜、もう一度ここに来る。それまでに、父の周辺を調べる。あなたは、牙嶋の内部を探れ」

 「わかった」

 「それから」と朱音は桐箱を蒼介に返した。「巻物はいらない。持っていても、今の私には毒にしかならない」

 蒼介は黙って箱を受け取った。

 朱音は頭巾を被り直し、幕舎の入り口へ向かった。そこで足を止め、振り返らずに言った。

 「あなたは、なぜ最初に声をかけた。黙って見逃せば、それで済んだはずだ」

 しばらく、間があった。

 「お前が、怖くなさそうだったから」

 朱音は、その答えが少し意外だった。

 「怖くなさそうだったから、声をかけるのか」

 「怖そうな人間に声をかけるのは、戦いの始まりだ。お前は怖くなさそうだった。だから話ができると思った」

 「それは褒めているのか、馬鹿にしているのか」

 「どちらでもない」と蒼介は言った。「ただの、感想だ」

 朱音は何も言わなかった。

 霧の中へ、静かに踏み出した。

 背後で、幕舎の灯りが消えた。


 杉林の縁まで戻ると、鈴葉が飛びついてきた。

 「あかね様! 遅いから、もう——」と言いかけて、朱音の顔を見た。「……どうかなさいましたか」

 「何でもない」

 「いいえ、何かあります。そのお顔は、何でもないお顔ではありません」

 朱音は空を見上げた。霧が少し晴れ、星がいくつか見えていた。

 「鈴葉」

 「はい」

 「父上のことを、どう思う」

 鈴葉は少し驚いたように黙った。それから、慎重に言った。

 「……藩主様のことは、尊敬しております。朱音様のことを、誰よりも大切にしておられる方だと」

 「そうだな」

 「それが、どうかなさいましたか」

 朱音はしばらく星を見ていた。

 父の印が、脳裏に焼きついていた。

 米粒ほどの大きさの、あの印が。

 「帰ろう」と朱音は言った。「話は、歩きながらする」

 鈴葉は頷き、朱音の隣に並んだ。

 二人は霧の中を、霞廻へ向けて歩き始めた。

 朱音の胸の中には、巻物も手に入れられなかった夜のことよりも、ずっと大きなものが、静かに沈んでいた。

 父が何かを隠している。

 そして、敵の陣の中に、父の印があった。

 この二つの事実の間に何があるのか、朱音にはまだわからなかった。

 わかっているのはひとつだけだ。

 明後日の夜、また蒼介に会いに行く。

 それが正しい判断かどうかは、まだわからなかった。しかし、正しいかどうかよりも先に、そうしなければならないと、体が知っていた。

 父の真実を、知りたかった。

 知りたくない気持ちよりも、ほんの少しだけ、知りたい気持ちのほうが、大きかった。


── 第二章、了

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